生きることの意味

人間は何のために生きているのでしょう。自分などいなくても世の中は動いてゆきます。ただ死ぬために生きているのではないでしょうか。

人間は何10億の中の1人ですが、その1人が皆いなくなったら人間社会はなくなります。ですから、1人の人間はすべての人類が必要としています。しかし自分さえというエゴで捉えると、1人の人間は何の価値もないものに感じられますね。
人間が生きる意味って、お花が咲いてる意味や地球や宇宙がある意味と同じではないでしょうか。お花はどうしてあんなにきれいな花を咲かせるのでしょう。宇宙はどうしてあんなに壮大なのでしょう。人間の生命はどうしてあんなに精緻なDNAによって築かれているのでしょう。それらには意味があるかも知れないしないかも知れません。だから人間は皆それを探しながら生きていると思います。
そのような生きることへの疑問が形而上のものでなければ、鬱病(うつ病)も考えられますから、不眠、食欲不振、性欲不振などがあれば、心療内科に相談されて下さい。


自分が生きていることの意味が判りません。人間は何故生きているのでしょう。

すべての人間は生きる目的、生きる理由に対して盲目です。それを捜し求めてゆくのが人生ではないでしょうか。とはいってもそれだけのお応えでは不満足だと思いますので、判らないながらも私のささやかな人生で感じていることを申し上げます。
人間が生きている理由には主体的なものと2次的なものと2つあるようです。まず2次的な理由は、自動的に生命を維持しようとする生命力によるものです。体を形成し、調節を維持し、呼吸をし、食を食み、消化排出し、性を営み、この生命力によって私達は何の疑もなく無条件に生きようとします。
もう1つの主体的な理由は、私達の無意識に深く潜在していて、これに気付くのはなかなか難しいようです。まず私達には、家族など縁ある人達との結び付きを求める強い欲求があるようです。それから、自分のこれまでの習慣を正して、完成した人間に近付こうとする欲求があるようです。そして自由を求める強い欲求もあるようです。恐らく人生はこれらのことを実現する機会を私達に与えているのではないでしょうか。この主体的理由を実現するため生命力が付加されていると思います。
私達はこのように、目的を持って主体的に生きている、というのが私のこれまでの仮定です。どうかご自分の結論を探しながら、一生懸命生きてゆかれて下さい。


人は生きるために、労働をしてお金を稼がなければなりません。生きることが労働であるならば、それは何と空しいことでしょう。労働して、疲れて、精神的にも追い詰められて、人は何のために生きているのでしょう。

人間のエゴで物事を捉えると、働くことは自分が生きる(生命を維持する)ことの手段になります。人間が生きることの目的がエゴにあるのではなく全体にあることを知り、仕事の目的が、自分が生計を得るためにあるのではなく、人のため全体のために支え合うかけがえのない行為であることを知ったとき、仕事は苦しみではなく喜びになります。エゴの強さが、仕事を受動的な「労働」と主体的な「参加」の2つに分けると思います。


私は39歳の妻帯者です。家族円満、会社での仕事も順調なのですが、「生きる」ということが何なのかを考えると、今生きている時間がこれでいいのか判らなくなってしまいます。ただ時間が過ぎ去って死を迎えればよいのでしょうか?

人間は死が近付けば近付くほど、生きることの意味を真剣に考えるようになります。死を宣告された人が、どれほど充実した生き方を求めるかは、ご存知のことと思います。人生後半は、死を見つめる人生になります。それはまた人生の意味を深く考える機会でもあります。悔いのない人生を送るためにも、生きることの意味をよくお考えになって下さい。仏教が参考になると思います。


私は生まれてからずっと生きる意味を考えてきたのですが分かりません。死ぬということは、何もなくなることでしょうか?

埋葬や供養は霊魂不滅の考え方の下で行われます。霊魂不滅の考え方は人類発生から今日まで、すべての時代、すべての地域で人類と共にありました。死んでしまえば何もなくなるという唯物観は20世紀に入ってから自然科学の発展と共に生まれた考え方です。自然科学の視点からは霊魂を実証するものは何もなく、少数の霊能者の主観的な証言でのみ霊魂の存在を確認することができます。どちらの考え方を採るかはあなたの自由ですが、どちらであっても後悔しない道を選んだらよろしいでしょうね。


人間は一体何のために生きているのですか?世の中には嫌な奴ばかり。自分が損をしてばかり。正直に生きるって事は馬鹿をみるって事だよ。辛い事ばかりの毎日なのに、そうまでして生きなきゃならない理由は何ですか?教えて下さい。

人が何のために生きているのかを知った者は覚者です。人はそれを知るために生きています。ですから生きる理由は自分で捜し求めて下さい。世の中嫌な奴ばかりと感ずるのは、世の中から見れば自分が嫌な奴だからです。他人は自分の心を映す鏡であって、嫌な奴は相手に映っている自分の姿なのです。自分が変われば、嫌な奴など誰もいなくなるでしょう。損得の意味をよく考えてみて下さい。人間はもともと失うものも得るものも何もありません。自分のものという自分が錯覚であることに気が付けば、損など何もしていないことが判るでしょう。感謝する習慣を身につければ、苦楽は表裏一体で、辛いことばかりではあり得ないことが判るでしょう。他人に惑わされるのではなく、すべてが自分自身の内にあることを知って己を振り返って下さい。そうすれば全く違った人生が開けてくるでしょう。


 
不幸

自分だけを不幸に感じ、人が幸せに見えて羨ましくなります。どうすれば幸せを感じられるのでしょうか。

幸せを自分の外に求めていてはそれを見出すことができません。幸せはすでにあると思うのです。ご家族と寄り添って生きられることは幸せではありませんか。自分の意思で自由に行動できることは幸せではありませんか。自分で定めた目標を達成できることは、幸せではありませんか。幸せかどうかは客観的に決まるのではなく、その人の感じ方によって決まると思います。幸せの感受性を高めるには、感謝する習慣を身に付けることです。「感謝する心」「プラス思考を習慣付ける」参照。


何をやってもうまくゆき幸せそうな人がいる、私は何をやってもうまくゆかない。生きてゆくって不公平を我慢することなの。

幸、不幸と、運、不運は分けて考えなければなりません。あなたが2匹の犬を飼っていたとします。1匹はとても人懐っこく、しっぽっを振りながら近づいてくる犬で、もう1匹は警戒心が強く、いつも吠え付く犬だとしたら、あなたはどちらの犬を可愛がるでしょうか。勿論人懐っこい犬ですね。その様子に不満を持った吠え付く犬が、ご主人様を不公平だと思うのは正しいのでしょうか。人の幸、不幸は客観的に決まるのではなく、あくまでその人の感じ方で決まると思うのです。ですから、満足することのできる人、感謝することのできる人が幸せな人で、そうでない人が不幸な人だと思います。あくまで天は私達に公平に幸福を与えているのではないでしょうか。
運、不運もすべて自分の責任と考えられます。「運も実力のうち」「因果応報」「自業自得」「自分で撒いた種は自分で刈り取らねばならない」これらの諺がそれを示しています。幸運は他人の幸せに尽くし、全体の調和のために尽くした善行が、いつか幸運として自分に還ってくることだと思います。短い期間の損得は利己で決まり、長い期間の損得は利他で決まるという自然の法則なのではないでしょうか。もしご自分が長い目で見た幸運に恵まれたいのであれば、今は徳を積まれることです。ただこれは輪廻も含めた長い期間の話になりますし、幸運が実現する保証も全くありません。見返りを求めない徳の難しさがそこにあると思います。
感謝する心」「縁起と因果応報の法則」参照。


仕事やっと決まってうれしい。両親もいるし犬もいる。でも何ででしょうか?つまんないんです。いつもつまんないなぁって思って生活してる気がします。楽しかったのってどんな時なんだろう。教えてください。楽しくなりたいのです。

楽しさを得たければ、苦しさを求めて下さい。苦しさのないところ楽しさはなく、楽しさのないところ苦しさはありません。楽しさを求める人には苦しさが与えられ、苦しさを求める人には楽しさが与えられます。苦楽は表裏一体なのです。
仕事が決まって嬉しいのはそれまで仕事がなかなかなかったからですよね。感謝する心」「プラス思考を習慣付ける」参照。

 
夢と生きがい

若い頃の夢や希望は失われ、老いてゆくことに不安を感じます。

若い頃の夢や目標は人と比較した相対的なものです。少年が有名な野球選手になりたいように。人生半ばになってくると、それが本当の目標でなかったことに気付き始め、表面的な夢は崩れ去ります。今はそんな状態ではないでしょうか。人生後半は本当の自分の目標を探されたら良いと思います。
生きることの意味を真剣に追い求めれば、きっとまたかなえ切れないほどの夢でいっぱいになるでしょう。


難病を乗り越えたり、うつ病を繰り返しているうちに、妻が浮気をして離婚しました。今は1人暮らしで、話をするのは精神科医くらいです。何を生きがいにして生きていったら良いのでしょう。

ご自分の価値を高めることは生きがいになりませんでしょうか。ご家族がいらっしゃらないのは寂しいことだと思いますが、これを幸いと捉えれば、家族を扶養する経済的負担がなく、自分1人で自由に生きられるということです。もし私があなたの立場であれば、自分よりもっと困っている人たちのために、住み込みでも何でもして働くだろうと思います。ご病気と闘いながらの仕事は大変だとは思いますが、人間は自分のために何かを求める力は微力でも、人のためには絶大な力を発揮することができます。一度人のために自分に何ができるか考えてみられては如何でしょうか。そのような自我を乗り越えようとする努力は、うつ病の克服にもきっと役立つと思います。


私は父の暴力に遭って12歳で家出をして以来、何人かの男と同棲したり家に帰ったりを繰り返しながら、アルバイトや風俗で働きました。弟は警察沙汰が日常で、父が死んでから自殺未遂を繰り返して精神病院に入りました。私は学校でいじめに遭って中2で不登校になり、16歳で幸せを求めて東京へ出ますが、仕事は風俗しかなく、それが嫌になって家に戻りました。その後結婚しますが半年で離婚、そのときおなかにいた子供を堕胎しました。今は母と退院した弟と暮らしていますが、家族と顔を合わせることはほとんどなく、まともなバイトも辛くて、やってはやめるの繰り返しです。精神科に相談したら精神分裂病と診断されました。そのうちいいことがあるとも思えず、かといって自殺する元気もなく、部屋に引きこもっては親の金を食いつぶしています。しかし私には、どうしたらいいのか判らないのです。水子を作ってしまった私への罰が下されたのでしょうか。それとも子供の頃に虫や動物をむげに殺したり、残酷なことをした報いなのでしょうか。このような私が生きていることに何か意味があるのでしょうか。

未だお若いのにご苦労されましたですね。しかし辛さ苦しさは、心が成長してゆく原動力で、どんな人生にも大切な意味があります。将来の幸せのために、これからの心構えをいくつか申し上げます。水子は、ご自分が満足するまでご供養されたらよいと思います。悔いを残さないようにして下さい。それから一番大切なことですが、困難を避けてはなりません。積極的に困難を求め、困難を受け容れて下さい。楽ばかリ求めている人には苦しい境遇が与えられます。人間は要領よく生きることは決してできないのです。あとは自分の幸せではなく、人の幸せを願い、人のために人生を捧げて、今は徳を積まれるのが良いと思います。損得は度外して、即効的な見返りを求めてはなりません。自ら求めるものはなかなか得られませんが、人に与えたものは回りまわって、知らないうちに自分に還ってきます。それが幸運です。永遠の人生を想って、今は宇宙銀行に貯蓄をされるときだと思います。一生懸命徳を積めるのは生きている今しかありません。かけがえのない人生を悔いのないように精一杯生きて下さい。仏教聖典を座右に置かれることをお勧めします。


私は20代の女性です。子供の頃から感受性が強く、純粋で素直な人間だと思います。しかし大人になるにつれ現実や醜い物事を知り、夢や希望がどんどん減っていきました。昔は世の中や将来や人間がとても美しく見えたのに。汚いことでも醜いことでもそれが世間の常識なら、そのように生きていくべきなのでしょうか?これから私はどのように年をとっていけばいいのでしょう?

人間社会は極楽から地獄までが渾然とした迷いの世界です。その迷いは人間の欲望と、誰も知らなければ何をしても良いという5感による錯覚が交錯して起こります。人間は皆この迷いの渦に飲み込まれていますから、見本になる人は少数です。どうか自分を拠り所として、正しい生き方を探されて下さい。泥沼に咲く蓮のように、自らは正しくあって下さい。間違いの中にあるからこそ正しさは価値があります。間違いに同化することはありません。自分が他人と同じである必要は全くありません。

 
生涯設計


仕事をしながらふと考えるのですが、定年後人はどうやって生きていくのでしょう?私は未だ30代ですが、年金といっても充分ではありませんし、収入もなくなり、体も衰えていきます。となると、働いてるうちに貯金をしなければなりませんが、定年後暮らすにはかなりの額が必要になります。皆さんはどうやって生きているのでしょうか?

一般的なお応えはどこでも聞けますでしょうから、仏教的なお応えでよろしいですね。私もあと10年ほどで働けなくなりますが、貯蓄はほとんどありません。最悪家を売り払って、海に近い地で自給自足でもすれば良いかな?と考えていますが、先のことをそれほど心配もしていません。先のことは先になって考えればよいことで、その瞬間に最善を尽くせば人間生きられないことはないでしょう。お金を貯めるより有効なことは、お金を必要とする欲望の生活を改めることではないでしょうか。そちらの努力は誰でも実るはずです。


幼い頃から父と2人暮らしでしたが、昨年、事業の失敗が元で父が自殺をしました。私はまだ30代ですが、物や名誉や賞賛には何の魅力も感じず、噂話ばかりの友人付き合いにも疲れてしまい、俗世間から離れて暮らしたいと強く思っています。若い者が食べていけるだけの収入と自然の豊かな土地に移りたいと思うのは許されないのでしょうか?田舎も人間関係は大変だと聞きますが、人に不快な思いをさせない程度の付き合いが出来ればそれ以上を求められるのでしょうか?私は単に怠惰なだけなのでしょうか?

ご苦労をなさいましたですね。事業の失敗、お父さんの自殺と苦しいことが続いて、大変お疲れだ思います。落ち着くまで暫くゆっくりとされたらよいと思いますが、そのようなときであればこそ、長い将来の決断は待たれたほうがよいのではないでしょうか。
物や名誉や賞賛には何の魅力も感じないというのは、1つの人生観としては肯定できると思います。しかしそれを田舎生活と結びつけるのは如何なものでしょう?田舎生活といっても世俗であることに違いはありません。都会より人間関係はずっと大変になるでしょう。食べていけるだけの収入を得るのもそんなに容易なことではありません。自然を相手にする仕事は慣れるまで体が大変でしょう。厭世的な逃げで田舎生活に飛び込んだとすれば、新たな苦しみを背負うことになりませんでしょうか?もう少し元気になってから、将来の計画を立てられる事をお勧めします。

 
孤独

不妊のため子供がなく、死ぬ時はひとりぼっちで孤独です。母も孫がいなくて寂しがっています。

ご自分の将来を心配されているような、病気で入院しても誰も子供がお見舞いに来てくれない人、一人ぼっちで死んでゆく人、天涯孤独で寂しい人が、今もきっといると思います。そんな人達のために何かやってあげられることはありませんでしょうか。将来の自分の姿を慰め、励ましてあげることができれば、それをずっと続ければ、何かきっといいことがあるような気がします。お母さんには、強がりでもいいから「孫なんかいなくても、私がいるじゃないの」って励ましてあげたいですね。


一人暮らしをしていると寂しくて、食べることだけ考えてしまいます。田舎には友達もいるし趣味もあるのですが何か空しくて、孤独感を感じます。

人間は皆ぎりぎりのところで孤独に耐えていると思います。そして耐えられない部分を結婚、家族、友達、社会組織への参画などで補っているのではないでしょうか。孤独はまた他人に依存しないで自立することを意味しており、人間にとってとても大切な目標であるように思います。


30代独身です。孤独で寂しくて、色々工夫してきましたが、体調を崩して気力まで失いつつあります。死んだ祖母のところへ行きたいと思うようにもなりました。一人孤独で生きていける知恵がありますでしょうか。

孤独を癒すには愛(慈悲)があります。愛は受けることによっても与えることによっても孤独を癒すことができます。もしあなたが愛を受けることがなければ、自分を棚上げして、まず他の寂しい人達の孤独を癒す努力をしてみて下さい。それによって、自分への執着がなくなってくると、孤独も癒されてきます。将来のため、縁ある方々をくれぐれも大切にされて下さい。うつ病の気配もありますので、早めに心療内科に相談されたほうが良いかも知れません。


私はイギリス在住の主婦です。学生の時こちらの男性と結婚し、2〜3年前までは幸せでしたが、今だこちらの文化に溶け込めず、一人世界から隔離されているような感じです。主人は夜勤も多く家にいることは余りありません。趣味をもって人と接触する努力はしているのですが、なかなか友達もできないでいます。明るい気持ちでいれば道は開けると心に言い聞かせているのですが、何を努力すれば良いのか判りません。

どなたか経験者がいれば、良いアドバイスができると思うのですが、きっと異文化の中で孤独と闘っておられるのでしょうね。お話を伺いながら私がふと思いついたのはマザーテレサの生涯です。若いマザーテレサが全く文化も宗教も異なるインドに単身乗り込んで、生涯を貧しい人たちのために尽くしたことはご存知だと思います。マザーテレサが孤独に耐えられたのは、きっと貧しい人たちに愛を与え続けたからだと思います。孤独は愛は受けることによっても癒されますが、愛を与えることによっても癒されます。
そちらに困っている方々はおられませんでしょうか?その方々のために何か尽くされては如何でしょう?困っている方であればあるほど、喜ばれれば喜ばれるほどあなたの孤独は癒されるのではないかと思います。そしてご自分がイギリス社会で不可欠な人になったとき、文化の垣根はなくなっているのではないでしょうか。


 


一番大切にしていた親友を事故で亡くしました。死んだことが判っているはずなのにふと電話をしようとしたりして、現実に気付いたときは死にたいほど辛くなります。

私は未だそのような経験がないのですが、ある経験者がそのような場合に必要なことは3tであるとおっしゃっていました。最初はtear、次にtalk、そしてtimeの3つだそうです。今はどうかここで語られて下さい。もし霊魂不滅という考え方が確信できれば、亡くなったお友達とお話をされたらよいですね。こちらから向こうの世界は見えませんが、向こうからはこちらの世界がよく見えるようです。ですから亡くなった方は決して悲しんではいないようです。亡くなった方のためであれば、悲しい話ではなく楽しいお話をたくさんされて下さい。そして向こうの世界で幸せになるように、ご冥福をお祈りして下さい。


子供の頃から死ぬことが怖くて仕方ありません。私も若くして死ぬのではないか、死んだらどこへ行くのだろう、大切な子供も死んでしまうのだと考えると、涙が止まらなくなります。

死ぬのが怖いということは、これまで親しんできた自分の名前や思い出や家族や住まいなどへの愛着、執着が、すべて失われてしまうのではないかという刹那さであろうと思います。私たちはこのように過去に執着を残せば残すほど、未来を憂いるようになります。ですから過去に執着を残さず、今を全力で生きるのがよいと思います。死ぬことは、死ぬときになって考えましょう。
私たち人間は生まれ変わりを繰り返しているといわれますが、今の自分が過去の人生を思い出せないように、現在の記憶は奥深く潜在して、自意識とカルマだけが次の人生に繰り越されます。親しかった人たちは記憶から失われ、次の人生では縁で結ばれて、新たな出会いから始まります。今のお子さんも、前の人生で悲しい別れを遂げた誰かなのですね。このような輪廻をご自分で確信することができれば、死はそれほど怖いものではなくなるでしょう。「輪廻転生と宿業」参照。


母が手術中に植物人間になり、以前「植物状態では生きたくない」と言っていたことから、私が管を取ってもらい、息を引き取りました。母がどんな気持ちで逝ったのかと考えると、後悔ばかりしています。

親しいご家族が亡くなられたのはとても残念なことですから、悔やまれることはたくさんあると思います。そのため誰かを責めたり、自分を責めたりしてしまいます。しかし、もし霊魂不滅の考え方が受け容れられるのであれば、亡くなったご本人にとって死は決して不幸なものではないと思います。もし亡くなった方のためを考えるのであれば、取り返しのつかないことを悔やんで悲しむより、明るく元気に供養をしてあげるほうが、嬉しいのではないでしょうか。


人は必ず死にますが、両親や祖父母や大切な人を失うことが恐ろしいのです。死を迎えたとき後悔しないよう、毎日感謝をしながら接しています。人は死ねば仏様になるのでしょうか?

あなたが今ご家族をとても大切にされるのは、死を迎えたときに後悔しないためですね。私達が一生懸命生きられる理由も、死という終端があるからではないでしょうか。人間にとって最期というのは、とても大切なことのように思います。もし桜が一年中咲いていたら、何も感動するものはありませんね。今は秋。もうすぐ桜は紅葉して枯れ枝になります。そして厳しい冬につぼみを育み、春のひと時、再びあの美しい花を爛漫と咲かせます。枯れ枝こそ、私達に感動を与えてくれる源ではないでしょうか。今悲しい別れがあるからこそ、私達は再び感動的な出会いを迎えることができるのです。お父さんお母さんと赤ちゃんが対面する瞬間、私達はまた親しかった誰かと出会えます。何度でも何度でも。それが「人の縁」というものです。死ねば仏になるという方便の仏教宗派はありますが、輪廻を経て解脱して仏になるという表現のほうが私は親しみを感じます。「輪廻転生と宿業」参照



先日、父を突然亡くしましたが、1ヶ月経つのに頭の整理がつきません。父は1人で2階にいて、他の家族は1階でテレビを見ていました。そういえば物音がした気もしましたが、異変に気付きませんでした。父に無関心だったこともあります。父の死に気付いたのは3時間後、父を一人ぼっちで死なせてしまいました。父の気持ちを思うと悔やまれて親不孝だった自分が許せません。私の気持ちが救われるにはどうしたらいいのでしょう。

大切な方を失ったとき、居たたまれなくなって、自分を責めてしまう気持ちは良く判ります。しかし、そのためにいつまでも悔やんだり、悲しんだりしていると、その気持ちは亡くなられたお父さんにも伝わって、お父さんが苦しんでしまうでしょう。あなたのお気持ちが救われるには、亡くなられたお父さんが救われることだと思います。そのためには、明るく元気にお父さんのご冥福をお祈りすることが大切ではないでしょうか。償うことは何もないと思います。


先月、45歳の母を末期癌で亡くした22歳の女子大学生です。仏教では運命は生まれた瞬間に決まっているのでしょうか?私は母の人生がかわいそうで、時々やり場のない悲しみに泣いてしまいます。もう母親に相談もできないし、出産や結婚のアドバイスなどもしてもらえません。今は慣れない1人暮らしのような父子家庭で何とか生きていますが、いつか両親がいる人以上の強さと、優しさを身につけ、幸せな人生を築きたいと思っています。こんな私に母の死を受け止め、元気に強く生きるためのヒントやアドバイスを下さい。

45歳というのはまだまだお若いですし、あなたにとっては精神的に大きな支えでしたでしょうから、お母さんが亡くなられたのは大変悔やまれることでしょうね。人がいつ死ぬかは運命で、これは変えることができますが、人がいつか死ぬことは宿命でこれは変えることができません。このタイミングでお母さんが亡くなられたのは、あなたにとって自立を促す大切な意味があるのかも知れません。
>私は母の人生がかわいそうで、時々やり場のない悲しみに泣いてしまいます。
あなたのお話の中で、この言葉だけは少し違うと思いました。死は遺族にとっては悲しい別れでありますが、死者にとっては決して悲しいことではないといわれています。霊魂不滅の考え方では、死者はずっと生きていて、いつもご家族と共にいるからです。死者にとって一番の悲しみは、ご家族が自分の死をいつまでも悲しんでいることです。ですからもしお母さんのためにあなたが何かをやってあげられるとしたら、唯一、明るく元気にお母さんのご冥福をお祈りすることだと思います。お母さんはいつもあなたとお父さんと共にいるのです。でも何年かしたらお母さんを忘れてあげて下さい。それがお母さんのご冥福
につながります。


1年前、突然婚約者が自殺しました。彼の御両親や弟さん、そして親族の方々にも大変良くして頂きましたが、籍が入っていない以上私にできることは何もありません。私自身、ギリギリの所で生きていましたが、彼ともう一度出逢えることだけを願い、その為にもしっかり生きる決意をしました。今回教えて頂きたいのは、御両親の元にお仏壇がありますから、私が自室で写真を飾ってお花やお線香を上げることは良くないのでしょうか?彼を迷わせてしまいませんでしょうか?

婚約者を亡くされたのですから、きっと心に大きな衝撃を受けておられますでしょうね。丁重に供養をなさりたいというお気持ちは、奇特なことだと思います。毎日お線香を上げたり、お花を飾ったり、好きな物をお供えするのはとても良いことだと思います。元気で笑顔の写真に語りかけるのも良いと思います。
しかし供養という意味では、自分が満足するだけではなく、あくまで死者の成仏を祈る行為が中心でなければなりません。死者が成仏する意味は、この世の執着や習慣をなくすることであって、遺族がいつまでも悲しい思いに浸っていたり、いつまでも写真を貼って思い出すことは、好ましいことではないのです。ですからそれなりのタイミングで忘れることも、本人の成仏には大切なことになります。彼とはどれくらいお付き合いされたのでしょうか?しかも夫婦として生活された訳でもありません。ですから彼の供養を充分にしたら、あるタイミングで心に区切りを付けて、彼を忘れることも大切なことだと思います。まだお若いですから、新たな人生も待っていると思います。人生の一コマにいつまでも捕われないで、未来を展望されますことをお勧め致します。



死に逝く者はどのような気持ちで居ればいいのか教えてください。あと3ヶ月といわれている癌患者です。お釈迦様の有り難いお言葉聞かせてください。

すべての人間は必ず死にます。それが早くても遅くても、今の自分が死ぬことに変わりありません。人間に生死が必要なのは、限りある人生を全力で生きる必要があるからだと思います。短ければ短いほど充実した人生を送ることができます。どうか全力で生きられて下さい。
死は最後ではありません。生命の最後はあっても、自分の心に死はありません。私達は自分の無意識にある考え方や言葉や行動の習慣、表面性を取り除いた隠し立てのない自分の心を永遠に持ち続けます。その心を美しいものにするために、今、生命が与えられていると思います。全力で生きるということは、その心を少しでも美しくすることです。そのために是非仏の教えに触れられて下さい。
「たとい百歳の寿命を得るも、無上の教えに会うことなくば、この教えに会いし人の、一日の生にも及ばず。」…法句経

 
自殺

人間はどうせ死にます。それならば、苦しみを逃れたい一心で自分で死の時期を早めることがどうしていけないのでしょうか。

死んでしまえば楽になるという唯物観が自殺の理由であろうと思いますが、輪廻転生の仕組みの中で、自殺は苦しみを解決する手段になりません。再び苦しみの人生が繰り返されるのみならず、死後苦しみは一層大きなものになります。これは単なる脅しではなく、事実のようです。輪廻転生のサイクルに於いて、苦しみを自由に回避できるのはこの世しかなく、しかもこの世に生まれるための人の縁に巡り合えるのは、なかなか稀なことのようです。このように、せっかく苦しみから逃れるために生まれてきた貴重なチャンスを、刹那の苦しみによって捨ててしまうのが自殺であるということです。そのような間違いを決してお勧めできませんですね。「死の意味と死で解決できるもの」参照。


芸能界のあるグループが解散したからって自殺した女の子がいます。「死ぬ理由もないけど、生きる理由もない」ですって。子供からそう聞かれたら、どう自殺を否定すればよいのでしょう。

芸能グループに熱中して、それが自分の人生のすべてであると感じている若者にとって、グループが解散することは、人生の目的が失われたことに等しいかも知れません。しかしそれは一時の感情です。人間は、苦しみや虚無感などの一時的な感情で死を選んではいけないということではないでしょうか。苦しみや虚無感は、あとで振り返ってみれば何でもないことであったり、逆に人生を実り豊かなものにするすばらしいできごとであったりします。このようにその時々のできごとは、あとになってようやく自分の人生における意味を理解することができるのですから、一時的な感情で死を選んでしまうと、必ず後悔することになるでしょう。
人間の感覚は変化に対しては敏感なのですが、大きなうねりを捉えることはとても不得手なのです。そのため私たちは、生きていることの意味が何なのかという大きなうねりを知ることはできませんが、少なくともそれを一時の感情で誤認してはならないと思います。


人生何をやってもうまくゆかず、目の前には一筋の光も射さずすべてが闇の中、命が尊ければこそ何故人生の終着を自分で決められないのか、何故苦しんでまで生き続けなければならないのか教えて下さい。

死んでしまえば楽になるという誤った考え方(唯物観)が自殺の動機であろうと思います。自殺がいけない理由を理解するには、まず輪廻転生を知らなければなりません。輪廻思想では、私達人間は解脱をするまで幾生も生死を繰り返しているとされています。そして生死を繰り返す間に、私達が苦しみの原因を解決することによって、苦しみの源である自我の影響を絶ち、完成した人間を目差すことが人生の目的とされています。私達は生まれる前に自分の人生を概観して、自分の人生の目的を承知して生まれます。ですから自殺者は、ほんの一時の思いで貴重な人生を終止したことを深く後悔するのです。
自殺者は、死後そのような人生の目的を知り、自らの死を悔やんで生前に戻ろうとします。しかしそれが不可能であるため、死んだ場所で釘付けになります。死者にはもはや思考の自由がなく、死んだ時の苦しみを回避する方法がないため、そこでもがき苦しみ続けることになります。そしてその苦しみは本人に留まることがありません。自殺者が成仏できないというのは、このような状況によります。苦しみを乗り越える方法を私達が自由に選択できるのはこの世しかなく、しかもこの世に生まれるための人の縁に巡り合えるのはなかなか稀なことのようです。このように、せっかく苦しみから逃れるために生まれてきた貴重なチャンスを自ら絶って、目的とは逆に、苦しみを一層深めるのが自殺であるということです。そのような間違いは決してお勧めできないですね。
苦しみは自分自身が作り出しているものです。正しい生き方さえすれば、苦しみはなくなります。そのヒントは仏教の中に満載されています。どうかそちらの道をお選び下さい。「死の意味と死で解決できるもの」参照。


この頃よくテレビで、自殺した人が成仏出来ないで苦しんでいる心霊写真を見たりします。自殺したら絶対に成仏出来ないですか?今の私は、死んでしまった方がどんなに楽かって毎日考えています。治らない病気でにかかっています。毎日苦しくてしかたありません。

どのような人生も決して無駄はありません。人の境遇にはすべて意味があります。その意味は人生を生き通してみて初めて、判ってくると思います。刹那の感情で人生全体を判断すべきではありません。その病気は本当に治らないのでしょうか?現代医学以外にも病気を乗り超える方法はいくらでもあります。医者の言うことがすべて正しい訳ではありません。その病気をどれだけ勉強しましたか?どうか頑張って、ご自分で精一杯の人生を生きられて下さい。


精神障害者です。仕事も出来ません。相談できる人もいません。人生に意味が見出せません。気力も湧きません。気が弱い事ですが、これからの人生、生きることが出来ません。もう死にたいです。

あなたは自分で生まれ、自分で生きているのでしょうか?そうではないですね。人間は自分で生きているのではなくて、何かに生かされているのではないでしょうか?もしそうだとしたら今命あるということは、例え精神障害で仕事ができなくても、意味があって生きていることになります。その意味を探して下さいね。私達人間は自分が生きている意味や目的を知りません。それは皆同じなのです。それを探し続けるのが人生だと思います。
仕事でなくても、人のためにやれることをどんどんおやりになっては如何でしょうか。どんな病気になっても人の役に立つことはいくらでもあります。例えば「無財の七施」という言葉は、無一文の人が他人にやってあげられる7つの施しです。
眼施(優しいまなざしをかける)
和顔悦色施(微笑み、笑顔をかける)
言辞施(優しい言葉をかける)
身施(労働奉仕をする)
心施(感謝の心を投げかける)
牀座施(席を譲る、道を譲る)
房舎施(一宿一飯のくつろぎを与える)
自分に何かを求めても、
人の力は無力ですが、人に尽くしたことは回りまわって自分に還ってきます。人のために何かをおやりになってみて下さい。