戦争の本質と戦争を避ける道 

最初に取り上げるのは社会全体の悩みである戦争と犯罪です。
私達が戦争を余儀なくされる原因は、私達一人一人の心にある自我の防衛心に源があります。
防衛心は裏を返せば相手を破壊しようとする激しい攻撃心です。
これらは弱肉強食の自然界には不可欠であり、程ほどの範囲に留まれば競争心として人間に進歩をもたらしますが、節度を越えてしまうと争いを起こします。

私達は自己主張をしたり、人と口論しますが、それは心の中にある攻撃心(争いの心)が表面化したもので、争いの心が言葉となり、更に行動へエスカレートしてゆくと、無秩序な暴力となってお互いを傷付け合います。
そのような個人の争いが戦争の種子になっていますから、戦争をなくしてゆくには、一人一人が争いの心を絶たなければなりません。

人間自我は民族や国家といった集団自我を形成し、集団自我の防衛心と攻撃心が社会対社会の争いを起こして戦争になります。
つまり私達一人一人の争いの心が社会に大きく投影されたものが戦争だということです。
人の心と社会現象の関係は、ちょうどフィルムがスクリーンに投影されているように、スクリーンに向かっていくら戦争反対を叫んでも、フィルムである人の心は投影を続けます。

戦争はまた集団としての宿業の産物ですから、一人の力で抑止することはできません。
個人的には戦争をしたくないのに、全体としては戦争しなければならないという矛盾は、為政者と民衆の間にあるのではなくて、すべて一人一人の心の中にあります。
個と全体は全てが個人の心の中にあります。

人間は戦争の悲惨さと苦しみの中から膨大な年月をかけて、戦争の誤りを学んでゆきます。
このことの困難さは、大概の人が他人事のように戦争の当事者を非難しながら、自分の中の戦争の要因には気付いていないことにあります。
全ての人が争いの心をなくさない限り、戦争は起こるべくして起こり続けます。

それでは仏教はどのようにして戦争をなくすることができるのでしょう?
「アメリカのイラク攻撃に反対する!」といったスローガンのように、一方の集団自我に加担した反戦行動は、単なる参戦に過ぎません。
現象化した戦争に対する有効な反戦行動は、すべての人に向けられた警鐘でなければならないのです。
私達一人一人が自我の影響をなくし、争いの心ではなく、思いやりの心を育んで、その輪を世界中に広げてゆくことが、戦争をなくして世界平和を実現する唯一の方法です。
そこに仏教の果たす役割があります。

そして争いの心がなくなってゆく過程で、現象として世界平和が訪れてくるのは、一方的な軍事力の強さによる一極支配によって実現すると考えられます。
一極支配はそのまま治安を意味します。
究極の強さは結束の力(愛)であり、それは思いやりや慈悲によってもたらされますから、決して覇権というような形はとらないでしょう。

戦争という対等概念は平和への移行に伴って治安の概念に移行しますから、戦争という言葉の先入観に惑わされるのではなく、現象の意味を創造的に捉えなければなりません。
こんにちの世界情勢はほぼ治安に近付いていると思います。
強さの中に悟りの道があり、戦争は戦争によってなくなってゆきます。

私達はそれを日本史の戦国時代にも学ぶことができます。
戦国時代が終結したのは、強い豪族が全国を武力支配して、器の大きな集団自我が器の小さな集団自我を吸収してしまったからです。
強い者が勝利を完遂しなければ、戦国時代の戦乱と不幸はどれほど長く続いたことでしょう?
もし戦国時代に反戦を唱える人がいたら、その人は結果として平和の実現を妨げていたに過ぎません。

ここまで申し上げてきますと、今まで仏教徒が常識としていた非暴力不殺生などの考え方と趣が異なるので、かなりの反発があるかも知れません。
しかし目先の不殺生にとらわれて永遠の平和を妨げることは、「木を見て森を見ず」と言わざるを得ないでしょう。

私は知識で仏教を学んだことがないので、これまでその根拠を示すことができなかったのですが、偶然仏教聖典に戦争を必要悪と捉えている部分を発見しました。
原典はよく判りませんが、仏教聖典「なかま第2章第3節8項」を根拠としてあげておきます。
この中で釈迦は戦争の正しいやり方を指導した上で、「〜その戦いはついに勝利を得るだけでなく、戦いもかえって功徳となるであろう。」と述べています。

勿論釈迦も戦争を肯定している訳ではないでしょうが、叱ることと怒ることが似て非なるように、戦争も、当事者の動機が自我による暴力行為なのか平和を求める治安行為なのか、似て非なるものを区別しなければなりません。
煩悩を否定する方便と肯定する方便が何ら矛盾しないように、戦争を否定する方便と必要悪として肯定する方便にも何の矛盾もないのです。

 
社会から犯罪をなくするために
 


戦争と並んで社会を不幸に落とし入れているのが犯罪です。
最近日本の社会では犯罪の低年齢化が進んで、これを防ぐために罰則の強化が図られています。
罰則の強化によって本当に犯罪が減るのでしょうか?

犯罪の本質を捉えるとき、これも社会現象と個人の関係から解き明かしてゆかなければななりません。
戦争が私達一人一人の争いの心が社会に投影されたものであるのに対して、犯罪は私達の心の悪が社会に投影されたものということができます。
犯罪者の数は私達の心にある悪の大きさに比例していて、私達は犯罪者の存在によって自らの悪を知り、自らは犯罪者になることを思い止まっています。
犯罪者が悪で、自分は善であるという区分けは錯覚に過ぎません。

もし世の犯罪者をすべて抹殺してしまったら、今は犯罪を犯していない人たちの中から同じ数の犯罪者が生まれることになり、そのまま犯罪者を抹殺し続けたら、人間は誰もいなくなってしまうでしょう。
ですから罰則を強化することは犯罪者を増産する行為以外の何ものでもないのです。
犯罪も今の私達の自我の状態では必要悪と考えられます。

犯罪者の捉え方については経典にもあるようですから、これについて少なくても仏教徒からは大きな異論が出ないでしょう。
犯罪を防止するため私達にできることは、思いやりと慈悲の心を広げて私達一人一人の心の悪をなくしてゆくことと、犯罪者を許し、忍耐をもって犯罪者の矯正を図ってゆくことです。
忍耐の中にも悟りの道があります。

 
死の意味と死で解決できるもの 


私達は何か苦しみに出会ったとき、死によってその苦しみが避けられるものと思い込んで、自ら死を選ぼうとします。
それは20世紀に起こった唯物論の影響によるものだと思いますが、こんにち、退行催眠や前世記憶、臨死体験などの研究(飯田史彦氏(このサイトを参照)の著書「生きがいの創造」が参考になります)によって、ようやく唯物論に疑問が投げかけられるようになりました。

仏教は輪廻転生の考え方が背景にあり、人は完成したになるまで生死を繰り返すとされています。
ところがこの輪廻にも誤解があります。
今の生涯を全てリセットして、過去の生涯と無関係に新たな生涯が始められると錯覚すれば、それがまた死を選ぶ動機になってしまいます。

「輪廻」と一緒に考えなければならないものに「カルマ」と「人の縁」があります。
自分の不完全な考え方や行動の習慣はカルマ(宿業)として自分の心に蓄積され、次に生まれるときには、苦しみを通して自分の不完全さを正してゆくような環境が準備されます。
人間関係で生じたカルマは、必ずカルマを生じた相手と縁で結ばれて、その関係の中で不完全さを正すといわれています。

例えば、姑を苦しめた嫁がいたとします。
その嫁が自分の過ちに気が付かなければ、カルマを精算するための環境として、今度は嫁が姑から苦しみを受けるような境遇が与えられて、自分が与えた苦しみを逆に受けることによって反省を促すようにカルマは働きます。
現実的にはどちらにもカルマがあって、争いを繰り返しながらお互いに苦しみ続けるのが一般的なのでしょう。

ここでまた誤解を招くのは、カルマによる人の境遇を横並びに比較して、誰かの境遇が厳しいからその人は罪深いなどと錯覚することです。
人の境遇はあくまで固有であって、その人が耐えられる力と人の縁によって、輪廻の1コマが定まるだけですから、長い目で見れば横並びの比較は何の意味もなく、むしろ困難な人生であればあるほど、実り豊かな成果を得ることができます。
カルマは罰則ではなくて、学びの法則なのです。

「袖擦り合うも他生の縁」といいますが、良い縁でも悪い縁でも、家族は再び深い縁で結ばれて同じ関係が繰り返されます。
長い意味の幸せを考えれば、家族関係は努めて良い縁を築かなければなりません。
このようにカルマは死んでもリセットされませんから、自分を正すこと以外に、その苦しみから逃れられることは決してないのです。

死が何かを解決することはありません。
死の意味は終結ではなく、トランスファー(乗り換え)に過ぎませんから、あえて生死は区別する必要がない訳です。
人生は永遠に続くということです。

 
人嫌いを克服するために 


これまで悩み相談を受けていて、一番多かったのが人嫌い、対人恐怖、人間不信、引きこもり、いじめといった一連の問題ではないかと思います。
この問題は、ことがデリケートであることから、相談者の自我を傷付けないことが優先されて、一時凌ぎの慰めに終わることが多く、本質的な解決策とはかけ離れていたのが実情ではないかと思います。
そのような意味では厳しい言い方になりますが、どのような悩みも自分自身の中に原因を見出さない限り、他人のせいにしているうちは決して解決しないということです。

自分では気が付いていないと思いますが、傷付く心は同時に誰かを傷付けている心そのものです。
それは自我の防衛心によるものですが、防衛心は同時に激しい攻撃心でもありますから、傷付く人は子供や老人などの弱い人たちや、動物や虫けらや植物などの弱いものに対して、自分がどのような感情を持ち、どのような態度を取っているかよく観察して、自分の攻撃性に注目すべきなのです。
また傷付く心は、かって誰かを傷付けたカルマと考えることもできます。
「人をいじめたり傷付けたりすることがいけないことなのだ」ということを学んでゆく自分自身の心の叫びとも捉えることができます。

この他人を傷付けたり自分が傷付いたりする自我の心は、自分のもの自分のこと自分さえという自分へのこだわりが強くなるに従って、自分を周囲の環境から強く分離するようになり、それによって自分の範囲がだんだん小さなものになって、周囲から大きな圧迫を感ずるようになります。
それはいつも自分が誰かに見られているような感じです。
そして自分では気が付かないまま周囲を攻撃する結果、その反作用を受けて自分も傷付くことになります。
それが人嫌い、対人恐怖、人間不信、引きこもりにエスカレートしてゆきます。

それは他人と比較してその人が特別誰かを傷付けているということではなく、人によってそれを敏感に感じるかどうかが違っています。
ですからそのような悩みを持つ人は、誰かを傷付ける心を、人より敏感に感ずる感受性を持っているということで、それを改善することによって、人よりも人格を向上させる可能性を持つことになります。
人嫌いは大なり小なりかなりの人が持つ傾向で、人々の生活が豊かになって、経済生活の切実性が低くなるに従って、引きこもりなどの数が増加していると思います。

それらの問題を解決するには自分を捨てて、見返りを求めることなく人に尽くす習慣を身に付けることです。
大乗仏教の菩薩行もそのような目的に沿っています。
ボランティア活動で体の不自由な方を助けながら、相手に興味を持ち、相手の中に自分が入り込んで感じ、考えるようなトレーニングが有効です。
もし会社に勤めていれば、自分が小さい自分の範囲に留まって自分の給料のために働くのではなく、会社全体の立場に立って、会社の目的に沿って大勢のために仕事をするように考えたらよいと思います。

自分の思考習慣を変えるには長い年月かかりますが、そうやって心の底から大勢の人たちのために自分を犠牲にすることができるようになったとき、小さな自分はいつしか大きな自分に拡大し、争いのない思いやりのある心になっています。
そして人嫌いも対人恐怖も人間不信も引きこもりも全て解決しているはずです。

仏教は全く同じ目的の手段ですから、仏教を学んで実践されても良いと思います。

 
感謝する心(幸せのために) 

相田みつをさんの詩(このサイトを参照)に、「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」というのがあります。
お金や物を集めたところで、人の欲望には際限がなく、青い鳥の話のように、自分の環境に幸せを探し求めてもどこにも幸せはない訳です。
幸せは決して客観的に決まるのではなくて、その人の感じ方で決まるからです。
その幸せを感じる心が満ち足りた心であり、それは感謝する習慣によって身に付けることができます。

ところが欲望に生きる人は往々にして満ち足りない自分の環境に不平不満を感じます。
ここに不幸の原因があります。
どのような不遇にあっても満ち足りた人は幸せであり、どのように恵まれた境遇にあっても満ち足りない人が不幸なのです。

その幸福を導くのが感謝する心です。
私は感謝することを仏教の禅で学びました。
禅の食事は各自の持鉢[じはつ]で戴きますが、食事の後はご飯かすをたくあんとお湯で解いてそれを飲み干し、そのあと持鉢は洗わずに布巾で拭いて保存します。
洗う必要がないほど食べ尽くすことで、食べ物に対して感謝する習慣を身につけてゆきます。

私は感謝する習慣を身につけるため、少女ポリアンナの「良かった探し」(このサイトを参照)を提案しています。
1日3個づつ良かったことを探してみて下さい。
どのような悪い出来事も悪さだけでは成り立たず、悪いことと同じ数だけ良いことがあります。
私達はこの良い側面を見逃しているだけなのです。

私は良かった探しをやっているうちに、毎日食べる食事や身の回りのすべてのものが、世界中の人たちの手によって出来上がっていることに気が付きました。
1杯のご飯は農家の方が育てたお米ですが、農家で使うトラクターは世界の鉄で作られて世界の石油で動いています。
世界中の人たちは日本の工業製品を使って仕事をし、心を癒しています。
あらゆるもののルーツをたどってゆくと、世界中何十億の人たちのお世話になって私達は生きていることが判ります。

感謝することは人の心に感動をもたらします。
この感動する心が満ち足りた心となり、人に至福感(幸せ)をもたらします。


 
自立と依存(依存症と家庭内暴力をなくするために) 


人嫌いと並んで多いのは人間関係による悩みです。
人間関係の悩みは全て人間の依存性に起因しています。
環境(自分の外)に依存して環境に何かを求めていると、それが得られないことが苦しみになって人間関係を生じます。
例えば「誰かに認めてもらいたい」と感じている人は、無視されることが苦しみになり、「一人ぼっちでは寂しいから、お友達と仲良くしたい」と感じている人は、仲間外れになることが苦しみになります。

依存性は人間である限り誰にもありますが、依存性の高い人の特徴として、不平不満の多いことが挙げられます。
他人が自分の思い通りにならないことに満ち足りないものを感じていて、しまいには相手にそれを強要するようになります。
それが罵声や暴力となって、家庭内暴力や社会の犯罪を生んでゆきます。

そのような人は、環境が満たされないと自己が成立しないため、人の言葉や態度が気になってこれに執着します。
執着は人だけでなく、あらゆる環境(アルコールなどの薬物やギャンブルなどの現象)にわたって嗜癖
[しへき]を形成します。

共依存(このサイトを参照)は依存者同士が相互に関わり合う関係ですが、依存性は大なり小なりすべての人間にありますから、広義には人間社会全体が共依存によるものといえなくもありません。
狭義には家庭の親子関係を通して、強度の依存性が継承されてゆくことだと思います。
依存性による不平不満は、人間の不幸の大きな要因になります。

この依存性の対極にある性質が自立性です。
自立性は環境(自分の外)に依存することなく、自分の中にすべての原動力を持とうとする性質です。
自立した人は主体的で責任感に満ちています。
このような人はどのような問題も自分が原因であると考えていて、人のせいにすることがありません。
また孤独に耐えて、他人の賞賛や同意に関わりなく自分の態度を決めますから、他人から動かされることがありません。

このような自立性を高めてゆくには、どんなことでも人を頼らずに自分でやり通す訓練を続けることです。
人に頼らざるを得ないことはありますが、そのときも主体性は放棄しないことです。
主体性を確保すればそれは人を使うことを意味します。
日常生活の中で、人を頼らない訓練はいくらでもできます。

私は自分で自立性を高める訓練として、一人登山を繰り返しました。
それも見も知らぬ初めての山だけを登りました。
時には道に迷ったり、転落しかけたり、野生の動物に出会ったりします。
自分の力だけでこれを乗り超えることによって、自立性と創造性(智慧)が身に付いてゆきます。
危険を伴うので一人登山は余りお勧めできませんが、一人旅でも良いと思います。

自立性は全体に統合しようとする人間性の一側面ですから、感謝する習慣や思いやりの習慣によっても高まってゆきます。
人間関係の悩みが女性に多いのは、女性の自立性に関係しています。
自立性を高めることによって、人間関係の悩みはなくなってゆきます。

 
自分は変えられる 


「自分を変えることはできない」、あるいは「今のままの自分を守ろう」という思い込みがあると、自分の醜さを見つめ、それを改善するための方向に歩み出すことができなくなります。
そうなると、周囲からいくら救いの手を差し延べても、それは単なる非難攻撃に過ぎず、いつか行き着くところは唯一の逃げ場と思い込んでいる死以外になくなる訳です。

以前見かけたことがありますが、見知らぬ犬が田の泥にはまり込んで、自分で抜け出れない状態になって何日かたっていました。
それを助けようとして人が近付くと、犬は自分に危害を加えるものといらだって激しく噛み付き付き、誰も犬を助け出すことができなかったのです。
田舎のほとんど通ることのない場所だったので、その後の顛末は判りません。

人間の悩み苦しみは一時凌ぎの慰めをいくら求めても、自分を変えてゆく以外絶対に解決することはありません。
人間が自分を変えてゆくには2つのステップが必要になります。
最初に自分の改善点への「気付き」のステップと、次に正しい思考、行動を習慣化する「行」のステップです。

気付きのステップで障害になるのは信念と自己防衛心です。
頭の中が信念でいっぱいになると、それは自己主張として表面化します。
そのような人は、信念が障害となって外から人の話を受け容れることがでなくなります。
自分を変えることができないというのも1つの信念です。

信念と似て非なるものに内的な確信があります。
真の信仰心はこの内的な確信ですが、これは信念とは全く逆にあらゆることへの疑問(素直さ)から得られるものですから、信念とは分けて考えなければなりません。

自己防衛心は自分を傷つけまいとする自我の心で、自分の都合の良い話には耳傾けても、自分の醜さを見つめようとする話に対しては自己を欺瞞するのです。
自我を自分と思ってそれを守ろうとすることが、自我の醜さを見詰めることを妨げます。
この2点が阻害要因となって、自分の改善点になかなか気付くことができないのです。

気付きのステップを乗り越えて自分の醜さを見つめ、自分の改善点を見出した人は、その改善点を自分の無意識に習慣化してゆく「行」のステップに入ることができます。
知識としてそれを得ただけで、問題が改善されるのではなく、人間のほとんどの行動は無意識の中から沸きあがってきますから、この無意識の中に習慣化してゆかなければなりません。
この正しい行動の習慣化には長い年月がかかります。
ほとんどの場合一生では解決できないのですが、徐々に改善効果は表面化します。

例えば私の場合、短気と怒りっぽさを改善するために、優しさと忍耐力を身に付けなければなりません。
気付きのステップでは、山ほどある自分の問題点を箇条書きした後KJ法でまとめ、座禅や登山の方法を見出していきました。
あれから20年経って、未だ課題は山積ですが、少しは目に見えて改善し、社会生活での問題も減ってきました。
その間に成果として得られたものが、このHPになっています。

こうした私自身の体験から、人間は自分を変えられるということを確信しているのです。

 
プラス思考を習慣付ける 


私達の悩み苦しみや、それを解決するための自己改革には、人間性を向上し、完成した人間に近付く道があります。
「艱難汝を玉にす」という諺がありますが、与えられた課題が困難であればあるほど、それを乗り超えることによって大きな成果を得ることができます。
その辺の限界は、ストレスによるさまざまな障害によって決まりますから、ストレスを乗り越えてゆくために、ものごとを否定的にではなく、肯定的に感じる習慣を身に付ければ良いことになります。
それが「プラス思考」です。

プラス思考に関連してまず大切なことは感謝する心です。
感謝する習慣が心に感動を生んで、ストレスの原因である自我を直接軽減します。
これと同じ効果を短期間に養成する研修に「内観法」(このサイトを参照)があります。

プラス思考を習慣化するには先ず正しい生き方をしなければなりません。
正しい生き方というのは、全体の調和を実現する生き方で、仏教の教えが参考になります。
自分の欲望に支配された自己中心的な生き方をしていると、暗い想念が心を支配して、無条件でプラス思考を阻害します。

その上でプラス思考を実現する効果的な方法に言葉のイメージを使う方法があります。
プラスイメージの「明元素(現状打破)言葉」(このサイトを参照)を使い、反対の「暗病反(現状維持)言葉」を決して使わないことによってプラス思考を習慣化してゆくことができます。
明元素言葉と暗病反言葉は大きく書いて見易いところに貼っておくと効果があります。

もう1つ感謝する心の中でも紹介してありますが、少女ポリアンナの「良かった探し」(このサイトを参照)をお勧めします。
ポリアンナは自分がどんな困難に遭っても、「良かった」を探して、ひたむきに生きていました。
「良かった探し」を繰り返すことによって、ポジティブな思考習慣を身に付けてゆくことができます。

自己暗示によって肯定的な思考習慣を身に付け、さらに自分の願望を実現するためのアファメーションのサイトです。
自己中心的な欲望ではなく、大勢の幸せを願うところに効果が表れると思います。
「ピンチはチャンスだ、人生はドラマだ」とうたった清水秀雄さんのサイトです。
プラス思考の文化を企業に広げています。

何点か紹介してきましたが、これらの事柄は知識として知っているだけでは何の効果もありません。
繰り返し繰り返し実践することによって、自分の無意識の習慣にまで浸透させなければ、何も起こらないということです。
自分を変えるには、忍耐強い行の繰り返しが必要であるということを忘れないで下さい。
安直にプラス思考を習慣付けることはできませんが、忍耐強くそれらを繰り返すことによって、マイナス思考をプラス思考に転ずることは必ずできます。


 
人の性と不倫が意味するもの 


現在日本の離婚率が人口1,000人あたり2件、離婚理由の1番は「性格の不一致」、2番目が「不倫」、3番目は「暴力」によるものです。
この数値は離婚した結果であり、理由の潜在数はかなりの数になると思われます。
人間にとって家庭は愛と安らぎの基地ですから、家庭を苦しみと混乱に陥れる要因は良く知っておかなければなりません。

最初は不貞と不倫の問題を考えますが、それには先ず男女の性差を理解する必要があります。
男性の性欲は大変強く、相手を選ばない汚さや奔放さがあります。
一方女性の性欲は受動的で相手を選ぶため、汚い男性を受け容れた女性の不貞を男性も女性も大変汚らわしいものに感じます。

これは権利や差別の問題ではなく、性心理の問題であって、厳然として男性の不貞と女性の不貞は対等ではありません。
そのことによって男性の不貞だけ肯定する考えがありますが、後述する倫理の点でそれは好ましくありません。

女性の不貞は、男性の性欲を愛と混同してそれを受け容れるのでしょう。
性欲と愛は相反するものですから、女性は不貞を繰り返せば繰り返すほど、愛による喜びから遠ざかってゆきます。

人間の貞操感は、1対の男女が相互に排他的所有関係を約束し合う心理ですが、人間はその貞操感によって、1人の配偶者とだけ深く関わり合い、それによって愛を育み、夫婦が育んだ愛は子供に伝わって、家庭や人間社会を結束する源動力になってゆきます。
このことが人間と動物の性を際立たせています。

この貞操感に反する不倫は、排他的所有関係を約束した相手を裏切り、多大な苦痛を与えます。
倫理は本来共感性によって相手の痛みを感ずることですが、それがなければ、輪廻の中で自分が同じ苦しみを受けることによって、自ら為した誤りを学ぶようになります。

もし不倫を悔い改めることがなければ、因果応報によって、今度は自分が配偶者の不倫に苦しむことによって、不倫の間違いを思い知ることになります。
一時の欲望を乗り超えることができれば、永遠に配偶者から不倫の苦しみを受けることはないでしょう。
私達は今男性であり、今女性であるに過ぎません。

もし今、配偶者から不倫の苦しみを受けているならば、相手を非難するだけでなく、「自分が美貌や名声や金銭に恵まれて、引く手あまたの誘いがあったなら、同じ過ちを犯さないだろうか?」と自らを振り返るべきです。
一時の苦しみを回避するのではなく、これを永遠に苦しみをなくするチャンスにするのであれば、苦しみの中から自分自身の変容を図るべきなのです。

最後に、男性の不貞を肯定する理由として、イスラム圏の一夫多妻と日本の封建時代の妾がよく引き合いに出されますので、ここでその意味に触れておきます。
まずマホメットがアラーから受けた啓示に4人まで妻を持てるとありますが、これはイスラム圏の貧富の差を是正する目的が優先されたものと思います。
一夫多妻は富める極僅かの人たちに限られていて、決して一般的に行われているものではありません。

日本の封建時代の妾も世襲や政治の安定を目的としたもので、決して一般的に行われていた訳ではありません。
今の皇室の雅子妃のような問題を回避する目的が優先されたものと思います。
これらは不貞というより仕事に近いものですから、特殊なケースを一般化して、不貞を肯定する理由にすべきではありません。

男女の人数比と貞操感を考えれば、一夫一妻が自然であることは充分判りますね。
親の不貞はその後姿を見て育つ子供の貞操感に影響を与え、家庭の苦しみと混乱は子々孫々に伝わってゆきます。
無用な苦しみを家系の将来と、自分の将来に残すべきではないでしょう。

 
ドメスティックバイオレンス(DV) 


次は夫婦間暴力の問題です。
これについては今のところDV法発効に勢い付いた暴力被害者の感情論が幅を利かせ、被害者の一部は男女対立の構図を作り上げて、極めて暴力的に男性だけを非難しています。
それでは、長い意味でDVが解決するどころではなく、逆にエスカレートしてゆくだけでしょう。

DVは外部現象だけ見ても本質的な理解を得ることができません。
男性も女性も、人は皆心の中に暴力を持っていて、それが言葉となり、更に行動にエスカレートしてゆきます。
行動化した時は当然力の強い男性が女性に危害を加える結果となり、それが社会問題としてのDVになります。

しかし、それをもって男性だけ責めても本質的な解決にはなりません。
何故ならば女性も自分よりも弱いものには常に暴力的であるからです。
輪廻と宿業(カルマ)という視点でDVを捉えると、今加害者として暴力を振っている男性が改めることがなければ、いつか弱い女性の立場になって暴力の被害を受けるようになり、そのときに暴力がいけないことを学びます。

今暴力を受けている弱い女性こそ、自分の暴力をなくして将来加害者にならないことを学ぶ絶好の機会なのです。
ところが相手の暴力に対抗して自分の暴力性をエスカレートさせたのでは、その人は永遠に暴力を受け続ける必要があるでしょう。
何故ならばその人が男性として生まれれば、手のつけられない加害者になり得るからです。
人は自分の姿にはなかなか気付かないので、せめて相手の中に自分の姿を見出す謙虚さを失わないようにしなければなりません。

このように男性と女性を超越して、人間の暴力性をなくしてゆくところにDVの本質的な解決方法があります。
ですから、女性はよほどひどい暴力を受ける場合は別にして、些細な暴力にとらわれず、DV被害者の暴力的な考え方には付和雷同しないほうが良いでしょう。
短絡的に暴力を否定しても、今即座にそれをなくすることはできないのですから。
そして暴力を受けたときは、自分の心の中の暴力を点検し、優しい心を養成することによって、将来自分が暴力の被害者にも加害者にもならない道を探ることだと思います。
法律で犯罪がなくならないように、DV法で暴力がなくなるのではありません。

暴力被害者の中にはトラウマを受けた方もおられますが、傷付く心は同時に傷付ける心でもありますから、心が優しさに満たされて、人を傷付けることがなくなれば、自分が傷付くこともなくなります。
これについては「人嫌いを克服するために」を参照して下さい。

男性は力あるものの責任として
、心して弱いものをいたわらなければなりません。
さもないと、相手に与える苦しみは、必ず自分に降りかかって、苦しみの中でそれを悔いることになるでしょう。
DV被害者の悲痛な叫びの中にそれを見るべきです。
因果応報」は絵に書いた餅ではなく、正に私達の眼前に繰り広げられています。

 
離婚もう1つの視点 


離婚を迷って相談室を訪れる方はたくさんいます。
離婚の迷いは様々な状況によるものと思いますが、相談するほうも応えるほうも、ほとんどが刹那の苦しみを回避する目的だけで判断しようとします。
それは自殺者が今の苦しみを避けるために死を選ぶ発想と余り変わらないのです。
私はここでもう1つその判断に加えるべき視点を申し上げます。

夫婦の縁は人の縁の中では最も深いものです。
深い縁は、例え離婚したところで、輪廻を通して何度でも繰り返されます。
もう1つ、人には縁を通して学んでゆかなければならない課題(カルマ)があって、それを避けているだけでは、永遠にその課題が繰り越されることになります。

例えば前述のDVに関していえば、暴力を受ける妻は自分の持つ課題を解決することがなければ、永遠に加害者の夫に課題を残すことになります。
そのまま再婚しても、次の夫から暴力を受けるか、そうでなければ次の生涯で同じ夫を選んで暴力を受けることになるでしょう。
相手の非ばかりにとらわれて自分を顧みることがなければ、それに気付くまで何度でも同じ苦しみが繰り返されます。

性格の不一致というのも、性格は違うのが当たり前で、要は自分勝手と自分勝手が対立しているだけでしょう。
その対立の中には自分が解決すべき課題があって、相手の姿の中に自分の課題を見出すべきなのです。
相手に依存し、相手に不満を持ち、相手を非難するのではなく、自分を振り返り、自分を正すことができれば、長い意味でその人の人生は幸せなものになってゆくでしょう。

人の悩み苦しみを安直に解決する方法はありません。
忍耐強い自己改革によってのみそれは可能になります。
その自己改革の方向を示してくれる大切な人が今、目の前にいます。
永遠の幸せを考えたとき、今何を選択すべきなのかを考えて頂きたいのです。
勿論そのことに気付いたからといって過去をいくら悔いても仕方がないことで、今現在の自分の姿勢だけが問われています。

 
脳力開発 


悩みの数としてはそれほど多くないのですが、新しい職場で仕事をスタートするとき「仕事が難しい」あるいは「仕事が覚えられない」という悩みがあって、それで挫折をする人は多いようです。
教える側の手間も結構大変なので、2度3度同じことを聞かれると、気持ち良く教えることができなくなります。
それによって人間関係の問題までからむことになります。

勿論どんな仕事にも困難さはありますので、昔から「石の上にも3年」といわれますが、そのことは別にして、もし人と比較して自分の脳力が劣っていると感じるのであれば、それは充分これから獲得してゆくことができます。
今までほとんどの悩みが人間の自立性と思いやりに起因する問題であったのに対して、これは多少異質な人間の脳力(頭の良さ)の問題なので最後に取り上げました。

頭の良さは頭の回転力、記憶力、応用力(創造力)の3要素によりますが、それは思考を停止する力を養うことによって高めることができます
私達は眠ろうと思っても、頭の中に勝手な思いが駆け回ってなかなか寝付けないことがあります。
このように人間の思考は暴走したり、執着心によって惰性的に制止が効かない状態にあって、その思考の惰性が頭の切り替えや頭の回転を妨げて頭を悪くしています。
ですから何も思考しない力を養えば、頭を良くすることができるのです。
頭を良くするといっても、何のことはないのですね。

何も思考しない力は、逆に思考を集中する力になります。
このような集中力は色んな方法でトレーニングできますが、私は主として座禅(このサイトを参照)とα波バイオフィードバック法(このサイトを参照)をやりました。
α波バイオフィードバック法では、脳波を測定するための電極を額に設けますが、これは医療機器と同じもので、オーム真理教のヘッドギヤとは関係ありませんので念のため。

集中が進んでくると、例えば透明の水、部屋の照明、電車の窓枠、などを見ながらふと目をつぶったとき視覚に残る無意識の残像を保持することによって、いつでも集中力をトレーニングできるようになります。
寺院の梵鐘、太鼓、木板、庭にあるししおどしなどの衝撃的な単発音も集中力を深めます。
「集中力」や「脳力開発」でWebを検索すると、他にも様々な方法があることが判ります。

煩悩は思考の暴走を招く最大の要因ですから、集中力を養成するには、まず仏教で示された総合的な生き方をする必要があることはいうまでもありません。
このように思考を制御して集中力が高まるに従って、頭の回転が上がると同時に記憶力も創造力も高まってゆきます。
記憶力は認識力そのもののようで、時間上で情報を保持するといったコンピュータメモリーのような概念は、どうも私達が持つ錯覚のようです。
認識の強さによって時間を超越することが記憶であって、記憶力は脳の作用によるものではなく、脳が作り上げている時間を飛び越える力だと思います。

創造性は初体験を繰り返すことで強化できます。
私は初めての山の1人登山を繰り返しましたが、そのような方法を通して、自立心と創造性を身に付けることができます。
記憶が時間を超越することであるのに対して、創造は空間を超越することだと思います。
自我によって分断された叡智を少しづつ自分の中に発現することが智慧即ち創造性だと思います。

脳力開発に関しては、このように日常生活を離れた少し風変わりな訓練をしなければなりませんが、実は禅の修行はこの脳力開発を極めて合理的に体系化したものです。
密教の行法の中にも禅とは別の極めて合理的な脳力開発法があります。
行法については指導者につかなければ危険な場合もありますので、自己流は避けたほうが良いでしょう。
そのような方法で私達は自分の頭を良くすることができ、今獲得する力は以後の生涯で、生来の頭の良さとして生きてくることになります。

 
悩みそれは悟りへの道 


これまで寄せられた相談をよく見ると、応えの中で求められていることはわずか4つのパターンしかないことに気が付きます。
1つは自立心であり、1つは思いやりの慈悲心であり、もう1つは感謝する心であり、最後にこだわりのない智慧の心です。
ですからこの4つを追求してゆけば、どんな悩みもなくなってしまうということです。

実はこの4つは仏教の教えと見事に一致します。
仏道で求めている悟りの道が私達の悩みの中にあって、私達を悟りへ誘っているのですね。
もし私達に死ぬほどの苦しみがなかったら、不遜な私達は自らを省みることもなく、正しい道へ進むことができないでしょう。

苦しみは私達を素直で謙虚で純粋無垢の心にして、仏の教えを受けて悟りの道へ進む機会を与えてくれます。
このように悩み苦しみは実はすばらしいことであったことに気付きます。
苦しいときはそのように前向きに受け止めて、自分の中に正すべき道を見出していって下さい。

私達は相対分別の中で、とかく相手と自分を比較して、どちらが善いとか悪いとか考えます。
そこでほとんどの人は迷いの渦に飲み込まれます。
相手のことは相手の問題であって、自分とは関わりないことです。
自分は自分の問題にだけ立ち向かえばよいのです。
1人でも多くの方が、迷いの道を脱し、悟りの道に入られますことを念願して止みません。