第2章 生活の指針

 
第1節 家庭のしあわせ

1.災いが内からわくことを知らず、東や西の方角から来るように思うのは愚かである。内を修めないで外を守ろうとするのは誤りである。

 朝早く起き出て口をすすぎ、顔を洗い、東西南北、上下の六方を拝んで、災いの出口を守り、その日一日の安全を願うのは、世の人のするところである。

 しかし、仏の教えにおいては、これと異なり、正しい真理の六方に向かって尊敬を払い、賢明に徳を行って、災いを防ぐ。
 この六方を守るには、まず四つの行いの垢
[あか]を去り、四つの悪い心をとどめ、家や財産を傾ける六つの口をふさがなければならない。

 この四つの行いの垢とは、殺生[せっしょう]と盗みとよこしまな愛欲と偽りであり、

 四つの悪い心とは、貪[むさぼ]りと瞋[いか]りと愚かさと恐れとである。

 家や財産を傾ける六つの口とは、酒を飲んでふまじめになること、夜ふかしして遊びまわること、音楽や芝居におぼれること、賭博[とばく]にふけること、悪い友だちに交わること、それに業務を怠ることである。

 この四つの行いの垢[あか]を去り、四つの悪い心をとどめ、家や財産を傾ける六つの口をふさいで、それからまことの六方を拝むのである。

 このまことの六方とは何かというと、東は親子の道、南は師弟の道、西は夫婦の道、北は友人の道、下は主従の道、そして、上は教えを信ずる者としての道である。

 まず、東の親子の道を守るというのは、子は父母に対して五つのことをする。父母に仕え、家業の手伝いをし、家系を尊重し、遺産を守り、父母の死後はねんごろに供養することである。

 これに対して、親は子に五つのことをする。悪をとどめ、善をすすめ、教育を施し、婚姻をさせ、よい時に家を相続させることである。互いにこの五つを守れば、家庭は平和であり、波風が立たない。

 次に南の師弟の道とは、弟子は師に対し、座を立って迎え、よく仕え、素直に命[めい]を守り、供養を怠らず、慎んで教えを受ける。

 それと同時に、師はまた弟子に対して、自ら身を正しくして弟子を正し、自ら学ひ得たところをすべて正しく授け、正しく説いて正しく教え、引き立てて名を表わすようにし、何ごとについても守護を忘れないようにする。こうして師弟の間が守られて平和になる。

 次に西方の夫婦の間は、夫は妻に対し、尊敬と、礼節と、貞操とをもって向かい、家政をまかせ、ときどきは飾りを与える。妻は夫に対し、家政をととのえ、使用人たちを適切に使い、貞操を守り、夫の収入を浪費せず、家政をうまく行うようにする。これによって夫婦の間はむつまじく、争いは起こらない。

 次に北方の友人の道は、相手の足らないものを施し、優しいことばで語り、利益をはかってやり、常に相手を思いやる。

 また友人が悪い方に流れ落ちないように守り、万一そのような場合にはその財産を守ってやり、また心配のあるときには相談相手になり、不幸のときは助けの手をのばし、必要の場合にはその妻子を養うこともする。このようにして友人の間は美しく守られ、互いに幸せが得られる。

 次に下方の主従の道とは、主人は使用人に対して、次の五つを守る。その力に応じて仕事をさせる。よい給与を与える。病気のときは親切に看病する。珍しいものは分かち与える。ときどき休養させる。

 これに対して使用人は、主人に向かつて五つの心得をもって仕える。朝は主人よりも早く起き、夜は主人よりも遅く眠る。何ごとにも正直を守り、仕事にはよく熟練する。そして主人の名誉を傷つけないよう心がける。こうして主従の間にもつれがなくなり、常に平和が保たれてゆく。

 教えを信ずる者としての道というのは、どんな家庭であっても、仏の教えが入っていなければならない。そしてこの教えを受ける人として、師に対し、身[からだ]も口も意[こころ]もともになさけに満ち、ていねいに師を迎え、その教えを聞いて守り、供養をしなければならない。

 これに対して、仏の教えを説く師は、よく教えを理解し、悪を遠ざけ、善をすすめ、道を説き、人をして平安の境地に入らせるようにしなければならない。このようにして、家庭は中心となる教養を保って成長してゆく。

 六方を拝むというのは、このように、六方の方角を拝んで災いを避けようとすることではない。人としての六方を守って、内からわいてくる災いを、自ら防ぎとめることである。



2.人は親しむべき友と、親しむべきでない友とを、見分けなければならない。

 親しむべきでない友とは、貪[むさぼ]りの深い人、ことばの巧みな人、へつらう人、浪費する人である。

 親しむべき友とは、ほんとうに助けになる人、苦楽をともにする人、忠言を惜しまない人、同情心の深い人である。

 ふまじめにならないよう注意を与え、陰に回って心配をし、災難にあったときには慰め、必要なときに助力を惜しまず、秘密をあばかず、常に正しい方へ導いてくれる人は、親しみ仕えるべき友である。

 自らこのような友を得ることは容易ではないが、また、自分もこのような友になるように心がけなければならない。よい人は、その正しい行いゆえに、世間において、太陽のように輝く。



3.父母の大恩は、どのように努めても報いきれない。例えば百年の間、右の肩に父をのせ、左の肩に母をのせて歩いても、報いることはできない。

 また、百年の間、日夜に香水で、父母の体を洗いさすり、あらゆる孝養を尽くしても、または父母を王者の位に昇らせるほどに、努め励んで、父母をして栄華を得させても、なおこの大恩に報いきることはできない。

 しかし、もし父母を導いて仏の教えを信じさせ、誤った道を捨てて正しい道にかえらせ、貪[むさぼ]りを捨てて施しを喜ぶようにすることができれば、はじめてその大恩に報いることができるのである。あるいはむしろ、それ以上であるとさえいえよう。

 父母を喜び敬うものの家は、仏や神の宿る家である。



4.家庭は心と心がもっとも近く触れあって住むところであるから、むつみあえば花園のように美しいが、もし心と心の調和を失うと、激しい波風を起こして、破滅をもたらすものである。

 この場合、他人のことは言わず、まず自ら自分の心を守ってふむべき道を正しくふんでいなければならない。



5.昔、ひとりの信仰厚い青年がいた。父親が死んで、母親とともに親ひとり子ひとりの親しい生活を送っていたが、新たに嫁を迎えて三人の暮らしとなった。

 初めは互いにむつみあい、平和な美しい家庭であったが、ふとしたことから姑[しゅうとめ]と嫁との心持ちに行き違いが起こり、波風が立ち始めると、容易には納まらず、ついに母は、若い二人を後に、家を離れることとなった。

 母が別居すると、やがて若い嫁に男の子が生まれた。「姑と一緒にいる間は、口やかましいので、めでたいこともなかったが、別居をすると、こうしてめでたいことができた。」と、嫁が言ったという噂[うわさ]が、さびしいひとり暮らしの姑の耳に入った。

 姑は大変腹を立てて叫んだ。「世の中には正しいことがなくなった。母を追い出して、それでめでたいことがあるならば、世の中は逆さまだ。」

 姑は、「この上は、正しさという主張を葬り去らなければ。」とわめき立て、気遣いのようになって、墓場へ出かけた。

 このことを知った神は、すぐに姑の前に現われて、ことの次第を尋ね、いろいろに諭したけれども、姑の心の角[つの]は折れない。

 神はついに、「それではおまえの気のすむように、これから憎い嫁と孫を焼き殺してやろう。それでよいであろう。」と言った。

 この神のことばに驚いた姑[しゅうとめ]は、自分の間違っていた心の罪をわびて、嫁と孫の助命を願った。子も嫁もまたこのときには、いままでの心得違いを反省し、母を訪ねて、この墓場へ来る途中であった。神は姑と嫁とを和解させて、平和な家庭にかえらせた。

 自ら正しさを捨てなければ、教えは永久に滅びるものではない。教えがなくなるのは、教えそのものがなくなるのではなく、その人の心の正しさが失われるからである。

 心と心の食い違いは、まことに恐ろしい不幸をもたらすものである。わずかの誤解も、ついには大きな災いとなる。家庭の生活において、このことは特に注意をしなければならない。



6.人はだれでもその家計のことについては、専心に蟻[あり]のように励み、蜜蜂[みつばち]のように努めなければならない。いたずらに他人の力をたのみ、その施しを待ってはならない。

 また努め励んで得た富は、自分ひとりのものと考えて自分ひとりのために費してはならない。その幾分かは他人のためにこれを分かち、その幾分かはたくわえて不時の用にそなえ、また国家のため、社会のため、教えのために用いられることを喜ばなければならない。

 一つとして、「わがもの」というものはない。すべてはみな、ただ因縁によって、自分にきたものであり、しばらく預かっているだけのことである。だから、一つのものでも、大切にして粗末にしてはならない。



7.アーナンダ(阿難)が、ウドヤナ王の妃[きさき]、シャーマーヴアティーから、五百着の衣を供養されたとき、アーナンダはこれを快く受け入れた。

 王はこれを聞いて、あるいはアーナンダ、が貪[むさぼり]りの心から受けたのではあるまいかと疑った。王はアーナンダを訪ねて聞いた。

 「尊者は、五百着の衣を一度に受けてどうしますか。」

 アーナンダは答えた。「大王よ、多くの比丘[びく]は破れた衣を着ているので、彼らにこの衣を分けてあげます。」「それでは破れた衣はどうしますか。」「破れた衣で敷布を作ります。」「古い敷布は。」「枕の袋[ふくろ]に。」「古い枕の袋は。」「床の敷物に使います。」

 「古い敷物は。」「足ふきを作ります。」「古い足ふきはどうしますか。」「雑巾[ぞうきん]にします。」「古い雑巾は。」「大王よ、わたしどもはその雑巾を細々[こまごま]に裂き、泥[どろ]に合わせて、家を造るとき、壁の中に入れます。」

 ものは大切に使わなければならない。生かして使わなければならない。これが「わがもの」でない、預かりものの用い方である。


 
第2節 女性の生き方

1.世の中には四通りの婦人がある。第一種の婦人は、ささいなことにも腹立ちやすく、気まぐれで、欲深く、他人の 幸福を見てはそねみ、施すことを知らない。

 第二種の婦人は、腹立ちやすく、気まぐれで、欲深いが、他人の幸福をうらやみねたむことがなく、また施すことを知っている。

 第三種の婦人は、心広く、みだりに腹を立てない。また、気まぐれでもなく、欲を抑えることを知ってはいるが、しかし他人をうらやみ、ねたむ心が取れず、また施すことを知らない。

 第四種の婦人は、心広く、腹を立てることがなく、欲を抑えて落着きがあり、そして他人をうらやまず、また施すことを知っている。



2.娘が嫁入るときには、次の心がけを忘れてはならない。夫の両親に敬い仕えなければならない。夫の両親は、わたしども二人の利益を計[はか]り、なさけ深く守って下さる方であるから、感謝して仕え、いつでもお役に立つようでありたい。

 夫の師は夫に尊い教えを授けてくださるから、自分もまた大切に尊び敬ってゆこう。人として心の師を持たずには生きられないからである。

 夫の仕事に理解を持ってそれを助けてゆくように、自分も教養に心がけよう。夫の仕事を他人の仕事のように考えてそれに無責任であってはならない。

 夫の家の使用人や出入りの人たちについても、よくその気立てや能力や食べ物の好みなどを心得て、親切に面倒を見てゆこう。また夫の収入は大切にたくわえ、決して自分のためにむだ遣いしないように心がけよう。



3.夫婦の道は、ただ都合によって一緒になったのではなく、また肉体が一つ所に住むだけで果たされるものでもない。夫婦はともに、一つの教えによって心を養うようにしなければならない。

 かつて夫婦の鏡とほめたたえられたある老夫婦は、世尊のところに赴いて、こう言った。「世尊よ、わたしどもは幼少のときから互いに知りあい、夫婦になったが、いままで心のどのすみにも、貞操のくもりを宿したことはない。この世において、このように夫婦として一生を過ごしたように、後の世にも、夫婦として相まみえるととができるように教えて戴きたい。」

 世尊は答えられた。「二人ともに信仰を同じくするがよい。一つの教えを受けて、同じように心を養い、同じように施しをし、智慧[ちえ]を同じくすれば、後の世にもまた、同じく一つの心で生きることができるであろう。」



4.アナータピンダダ(給孤独[きつこどく])長者の長子に嫁いだスジ ャーター(玉耶[きょくや]女)は、驕慢[きょうまん]であって他を敬うことを知らず、父母や夫の命に従わず、いつも一家の波風を起こすもととなっていた。

 ある日、長者の家に入ってこの有様を見た釈尊は、その若い妻のスジャーターを呼んでこう教えた。

 スジャーターよ、世には七種の妻がある。

 第一は、人を殺すような妻で、汚れた心を持ち、夫に対して敬愛の思いがなく、はては他の男に心を移す妻である。

 第二は、盗人のような妻で、夫の仕事に理解を持たず、自分の虚栄を満たすことだけを考え、口腹[こうふく]の欲のために、夫の収入を浪費し、夫のものを盗む妻である。

 第三は、主人のような妻で、家政のことをかえりみず、自分は怠惰[たいだ]であって口腹の欲にだけ走り、常に荒々しいことばで、夫を叱咤[しった]している妻である。

 第四は、母のような妻で、夫に対して細やかな愛をいだき、母が子に対するように夫を守り、夫の収入を大切にする妻である。

 第五は、妹のような妻で、夫に仕えて誠を尽くし、姉妹に対するような情愛と、慚愧[ざんき]の心をもって夫に仕える妻である。

 第六は、友人のような妻で、常に夫を見て喜ぶことは、ちょうど久しぶりに会った友に対するようであり、行いは正しくしとやかに、夫を敬う妻である。

 第七は、奉仕するような妻で、よく夫に仕え、夫を敬い、夫のどんな行いをもよく忍び、怒りも恨みも抱[いだ]かず、常に夫を大切に生かしてゆこうと努める妻である。

 「スジャーターよ、おまえはこのうち、どの類[たぐい]の妻となろうとするのか。」

 この教えを聞いたスジャーターは、大いにわが身を恥じて懺悔[ざんげ]し、これから後は奉仕するような妻となって夫を助け、ともに道を修めてゆこうと誓った。



5.アームラパーリーは、ヴァイシャーリーにいる名高い美女であった。あるとき、彼女はよい教えを聞こうとしてを訪れた。

 釈尊はアームラパーリーにこう教えられた。

 「アームラパーリーよ、女性は心の乱れやすいもの、行いの間違いやすいものである。欲が深いから、惜しむ心ねたむ心が強く、障害の多いものといわなければならない。

 だから、女は男に比べて、道に進むことが困難である。まして年若くて容色の美しい者はなおさらである。財と色との誘惑にうち勝って、道に進まなければならない。

 アームラパーリーよ、女にとって強い誘惑である財と色は、決して永久の宝ではない。たださとりの道だけが、永久[とわ]にこわれない宝である。強い者も病に犯され、若い者も老いに破れ、生は死に脅[おびや]かされる。また愛する者と離れて、恨みある人と一緒にいなければならないこともあり、そして求めることも、とかく思うようにならない。これが世のならわしである。

 だから、この中にあっておまえの守りとなるものには、たださとりの道がある。急いてやこれを求めなければならない。」

 この教えを聞いた彼女は、仏弟子となり、教団に美しい庭園を寄進した。



6.さとりの道においては、男と女の区別はない。女も道を求める心を起こせば、

 「さとりを求める者」といわれる。

 プラセーナジット(波斯匿[はしのく])王の王女、アヨーディヤー国王の妃[きさき]、マッリカー(ショウマン)夫人[ぶにん]は、このさとりを求める者であって、深く世尊の教えに帰依し、世尊の前において、次の十の誓いを立てた。

 「世尊よ、わたしは、今からさとりに至るまで、(1)受けた戒を犯しません。(2)日上の方々を侮[あなど]りません。(3)あらゆる人びとに怒りを起こしません。(4)人の姿や形、持ち物に、ねたみ心を起こしません。(5)心の上にも、物の上にも、もの惜しみする心を起こしません。(6)自分のために財物をたくわえず、受けたものはみな貧しい人びとに与えて、幸せにしてあげます。(7)施しや、優しいことばや、他人に利益を与える行いや、他人の身になって考えてあげることをしても、それを自分のためにせず、汚れなく、あくことなく、さまたげのない心で、すべての人びとをおさめとります。(8)もし孤独のものや、牢[ろう]獄につながれている者、または病に悩む者など、さまざまな苦しみにある人びとを見たならば、すぐに彼らを安らかにしてあげるために、道理を説き聞かせ、その苦しみを救ってあげます。(9)もし生きものを捕らえ、または飼い、あるいはさまざまな戒を犯す人を見たならば、わたしの力の続く限り、懲[こ]らすべきは懲[こ]らし、諭すべきものは諭して、それらの悪い行いをやめさせます。(10)正しい教えを得ることを忘れません。正しい教えを忘れる者は、すべてにゆきわたるまことの教えから離れて、さとりの岸にゆくことができません。

 わたしはまた、この不幸な人びとを哀れみ救うために、さらに三つの願いを立てます。
(1)わたしはこのまことの願いをもって、あらゆる人びとを安らかにしてあげます。そして、その善根[ぜんこん]によって、どんな生を受けても、そこに正しい教えの智慧[ちえ]を得るでありましょう。
(2)正しい教えの智慧を得たうえは、あくことなく、人びとに説いて聞かせます。
(3)得たところの正しい教えは、身[からだ]と命と財産を投げ捨てて、必ず守ります。

 家庭の真の意義は、相たずさえて道に進むところにある。婦人といえども、この道に進む心を起こして、このマッリカー夫人のように大きな願いを持つならば、まことに、すぐれた仏の弟子となるであろう。


 
第3節 もろ人のために

1.ここに国家を栄えさせる七つの教えがある。

 一つには、国民はしばしば会合をして政治を語り、国防を厳[げん]にして自ら守り、

 二つには、上下心を一つにして相和し、ともに国事を議し、

 三つには、国風を尊んでみだりにあらためず、礼を重んじ義を尊ぴ、

 四つには、男女の別を正し、長幼の序を守って、よく社会と家庭の純潔を保ち、

 五つには、父母に孝し、師長に仕え、

 六つには、祖先の祭壇をあがめて祭儀を行い、

 七つには、道を尊ぴ徳をあがめ、徳の高い師について教えを仰ぎ、厚く供養することである。

 どんな国でも、この七つの教えをよく守って破ることがないならば、その国の栄えることは疑いがなく、外国の侮[あなど]りを受けることはないであろう。



2.昔、大光王は、自分の王道を次のように説いた。
 「自分の国家を治める道は、まず自分を修めることである。自ら慈の心を養って、この心をもって国民に臨み、人びとを教え導いて心の垢[あか]を除き去り、身と心を和[やわ]らげて、世の中の楽しみにまさる正しい教えの喜びを得させる。

 また、貧しいものが来たときには、蔵を開いて心のままに取らせる。そしてこれを手がかりとして、すべての悪から遠ざかるように戒める。

 人びとは各々その心をもととして、見るところを異にする。との城中の民にしても、この都を美しいと見るものもあれば、また汚いと見るものもある。
これは各々、その心、その環境がそうさせるのである。

 教えを尊び、心の正しい素直な人は、木石にも瑠璃[るり]の光を見るのであるが、欲が深くて自分を修めることを知らない者は、どんな立派な御殿でもなお美しいと見ることはできない。

 国民の生活は、万事みなこのとおり、心がもとになっているから、わたしは国を治める大もとを、民にその心を修めさせることに置いている。」



3.大光王のことばどおり、政道の大もとは、民にその心を修めさせることにある。

 この心を修めることはさとりの道に進むことであるから、政治の上に立つ人は、まずの教えを信じなければならない。

 もし政治を行う人が、仏を信じ、教えを信じて、慈悲深く徳のある人を敬い、これに供養するならば、敵もなく、恨みもなく、国家は必ず栄えるに違いない。

 そして、国が富み栄えるならば、他の国を貪[むさぼり]り攻めることもなく、また他を攻める武器の必要もなくなるであろう。

 したがって国民も満足して楽しみを受け、上下和らいでむつみあい、善を増し徳を積んで互いに敬愛し喜びあうから、いよいよ人は栄え、寒さ暑さもととのい、日も月も星も常の程度を失わず、風雨が時に従うようになり、こうしていろいろの災いも遠ざかるようになるであろう。



4.王たるものの勤めは、民を守ることにある。王は民の父母であり、教えによって民を守るからである。民を養うこ とは、父母が赤子を養うようなもので、父母が赤子のことばを待たず、湿ったものを取り替えて新しい布を当てがうように、いつも民に幸いを与えて悩みを去るよう慈しみ養うのである。まことに王は、民をもって国の宝とする。これは、民が安らかでなければ政道が立たないからである。

 だから、王たるものは、民を憂えてしばらくも心を離さない。民の苦楽を察し、民の繁栄をはかり、そのためには常に水を知り、風、雨を知り、実りの善悪を知り、日照りを知り、民の憂いと喜びを知り、罪の有無と軽重、功績の有無などをよく知って、賞罰の道を明らかにする。

 このように民の心を知って、与えなければならないものは時をはかって与え、取るべきものはよく量って取り、民の利を奪わないよう、よく税を軽くして民を安らかにする。

 王は力と権威によって民を守り、このようにして民の心になって民をよく見守るものが王と呼ばれる。



5.この世の中の王を転輪王というが、転輪王とはその家系が正しく、身分が尊くてよく四辺を統御し、また教えを守るところの王である。

 この王のゆくところには、戦いもなく恨みもなく、よく教えによって徳をしき、民を安らかにして邪と悪を下す。

 また転輪王は、殺さず、盗まず、よこしまな愛欲を犯さず、偽り、悪口、二枚舌、むだ口を言わず、貪[むさぼ]らず、瞋[いか]らず、愚かでない。この十善を行って民の十悪を去らせる。

 また、教えによって政治を正すから、天下において思いのままになすことができ、そのゆくところには戦いがなく、恨 みもなく、互いに相犯すこともない。したがって、民は和[やわ]らぎ、国は安らいで、民にいよいよその生を楽しませることができる。だから教えを守る王といわれるのである。

 また転輪王は、王の中の王であるから、もろもろの王はみなその徳を喜び、その教えに従って各々その国を治める。

 このように転輪王は、もろもろの王をして各々その国に安んじさせ、正しい教えの下に王の任を果たさせる。



6.また王は罪を裁決するにも、慈悲の心をもととしなければならない。明らかな智慧[ちえ]をもってよく観察し、五つの原則をもってよく処置しなければならない。

 五つの原則というのは、

 一つには、実によって不実によらない。これは、事実を調べて、その事実によって処断することである。

 二つには、時[じ]によって非時[ひじ]によらない。これは、王に力のあるときが時であり、力のないときが非時である。力のあるときには罰しても効果があるが、力のないときには罰しても混乱があるだけであるから、時を待たなければならない。

 三つには、動機によって結果によらない。これは、罪を犯すものの心に立ち入って、それが故意であるか故意でないかを見きわめ、故意のことでなければ許すのをいう。

 四つには、親切なことばによってあらいことばによらない。これは、罪が規則のどれに当たるかを明らかにして罪以上の罰を与えないようにし、また柔らかい優しいことばで諭してその罪を覚[さと]らせるのをいう。

 五つには、慈悲の心によって瞋[いか]りの心によらない。罪を憎んで人を憎まず、慈悲の心をもととして、罪を犯したものにその罪を悔いあらためさせるように仕向けるのである。



7.もし王の重臣であって国家の大計を思わず、ただ自分の利ばかりを求め、賄賂[わいろ]を取って政道を曲げ、人民の気風を頽廃[たいはい]させるならば、人民は互いに相欺くようになり、強い者は弱い者をしいたげ、貴い者は卑しい者を軽んじ、富んだ者は貧しい者を欺き、曲がった道理をもって正しいものを曲げることになるから、災いがいよいよ増長するようになる。

 すると忠実な重臣は隠れ退き、心あるものも危害を恐れて沈黙し、ただへつらう者だけが政権をとって、みだりに公権を用いて私腹を肥やし、民の貧しさは少しも救われないようになる。

 このようになると、政令は行われなくなり、政道はまったくゆるんでしまう。

 このような悪人こそ、民の幸福を奪う盗賊であるから、国家のもっとも大きな悪賊といわなければならない。なぜなら、上を欺き下を乱して、一国の災いの源となるからである。王はこのような者を、もっとも厳しく処罰しなければならない。

 また教えによって政治をしく王の国において、父母の生育の恩を思わず、妻子にだけ心を傾けて父母を養わず、あるいはまた、父母の所有を奪ってその教えに従わないものは、これをもっとも大きな悪の中に数えなければならない。

 なぜなら、父母の恩はまことに重くて、一生心を尽くして孝養しても、し尽くせないものだからである。主君に対して忠でなく、親に対して孝でない者は、もっとも重い罪人として処罰しなければならない。

 また教えによって政治をしく王の国の中においては、仏と教えと教団の三宝に対して信ずる心がなく、寺を壊し経を焼き、僧侶[そうりょ]を捕らえて駆使するなど仏の教えを破る行いをする者は、もっとも重い罪の者である。

 なぜなら、これはすべての善行のもとである民の信念を覆[くつがえす]すものだからである。これらの者は、みなすべての善根を焼き尽くして、自ら自分の穴を掘るものである。

 この三種の罪がもっとも重く、したがってもっとも厳しく処罰しなければならない。その他の罪は、これらに比べると、なお軽いといわなければならない。


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8.正しい教えを守る王に対して逆らう賊が起こるか、あるいは外国から攻め侵すものがあるときは、正しい教えの王は三種の思いを持たなければならない。

 それは、第一には、逆賊または外敵は、ただ人を損ない人民を虐げることばかりを考えている。自分は武力をもって民の苦しみを救おう。

 第二には、もし方法があるなら、刃[やいば]を動かさないで、逆賊や外敵を平らげよう。

 第三には、敵をできるだけ生け捕りにして、殺さないようにし、そしてその武力をそごう。王はこの三つの心を起こして、それから後に部署を定め訓令を与えて戦いにつかせる。

 このようにするとき、兵はおのずから王の威徳をおそれ敬ってよくその恩になずき、また戦いの性質をさとって王を助け、そして王の慈悲が後顧の憂いをなくすことを喜びながら、王の恩に報いるために戦いに従うから、その戦いはついに勝利を得るだけでなく、戦いもかえって功徳となるであろう。