罪と償い

万引きをして捕まりました。自分が築き上げたすべてが崩れ去る思いで、罪の重さを感じます。

人間は5感の世界に生きていますから、他人に判らなければ何をしても良いという迷いがあります。そのため、人を欺いたり、ものを盗んだり、人を殺したりします。そのような間違いは、私もそうですが人間誰でも犯す可能性があるのです。あなたは幸いにも、盗みがいけないということを今回身に染みて判りました。あとは罪の償いとして、同じ過ちを犯す人を許してあげることだと思います。心の傷は背負って生きて下さい。同じ過ちを2度と繰り返さない確信の保証書なのですから。人間は皆同じ過ちを犯しています。そして皆心に傷を持っています。「社会から犯罪をなくするために」参照。


どんな悪いことをしても捕まらず、そ知らぬ顔をしている人がいます。警察でも裁判でも裁くことができません。人は利害関係だけで成り立っているのでしょうか。

誰も判らなければ、人間は何をしても良いと思っている人が確かにいます。法で人が人を裁くことはとても難しく、ぎこちないものであることもそのとおりです。しかしそれが本当で、泥棒や人殺しが得をするならば、社会は犯罪だらけになって、人類はとっくに滅んでいるでしょう。
そうならないのは決して法律や罰則があるからではないはずです。人間社会に悪がはびこらない理由は、人間が「因果応報」という自然の法則の中にあって、自分が犯した過ちは必ず自分で償わなければならないからなのです。泥棒や人殺しをする人は、以降の人生で、それが悪いことだと知って、その償いをする運命に導かれます。法で裁かれなくとも、自然の法則で裁かれるのです。勿論、思いやりがあって良いことをたくさんした人も、因果は応報します。
人間社会は、善悪混沌とした迷いの世界です。であればこそ、その中であなたが綺麗な心でおられることには大変な価値があるのではないでしょうか。どうかご自分に自信を持たれて下さい。「縁起と因果応報の法則」参照。


人殺しに幸せになる資格はあるのでしょうか?幸せになりたいと願うことは許されるのでしょうか?壊された命はどう償ったら許してくれるのでしょうか?どうしても自分で自分を許せない時はどうやって生きていけばいいのでしょうか?神仏は罪人に罰を与えてはくれないのでしょうか?罰を与えてくれたら少しは自分を許せるのではないかと思うのに。

お釈迦様にアングリマーラという殺人者の話があります。うろ覚えなので少し違っているかも知れません。99人も殺人をした人をお釈迦様が諭して、自分の弟子にされました。お釈迦様は償いとして、町に出て皆の非難を受けるよう指示されました。殺人者が町へ出ると、「人殺しが来た」といって石を投げられ、毎日血だらけになって還ってきました。来る日も来る日もそれを繰り返したそうです。あるときお釈迦様はアングリマーラに宣言されました。「あなたは殺人者ではありません。」
人は決して許されないことはないようですが、もし自ら罪を悔い改めることがなければ、以降の生涯でカルマとして償うことになるでしょう。「社会から犯罪をなくするために」参照。



私は良くも悪くもない凡人ですが、それでも「ひどい」と思って怒りが噴出すことことがあります。仏教では人を許さないと心に安らぎがないと言いますが、例えばNYのテロやオウムのサリン事件、上三川のリンチ事件などの加害者を許すことは正義なのでしょうか?

人を裁くことは自分を裁くことです。人を許すことは自分を許すことです。ですから許すことは自分の救いになります。それは人の心の奥に自他の区別がない部分があって、裁く心も許す心もそこから発せられるからだと思います。
社会の犯罪は私達1人1人の心の悪が社会に投影されたものです。私達の心はいつも犯罪すれすれのところにあって、犯罪者のおかげで私達は善悪を知り、自ら犯罪者になることを思い止まっています。犯罪は決して他人事ではなく、人を善人悪人で区別することはできないのですね。ですから罰則は憎しみではなく、あくまで犯罪者の矯正を目的としなければなりません。「社会から犯罪をなくするために」参照。


 
死後の世界

死後の世界が宗派によって異なりますが、宗派を選ぶことで自分の好きな死後に行けるのでしょうか。

死後の世界を宗派の選択によって選ぶことはできません。死後人間は、生前築き上げてきた自分の内面に共感する人達と共に、自分達に相応しい世界を作り上げて、そこに住むといわれています。その世界を表現する方法が、宗派や宗教によって違っているだけです。六道輪廻では、極楽〜地獄まで6つの世界に区分されています。キリスト教は天国と地獄の2つです。スウェーデンボルグの霊界日記では、明るい天上〜真っ暗な地下まで連続的に様々な世界が連なっているように表現されています。表現は違っても、結局これらは同じ事を言っているのではないでしょうか。
ちなみに正伝の仏教では死後を語らないことになっています。


死後の世界はあるという確実な証拠があるのでしょうか。死んだら終わりと思うと、何もやる気になりません。

証拠というのはこの世の論理ですから、この世の枠を超えた死後の世界を確信する根拠にはなり得ません。強いていえば、霊魂不滅の考え方は、人類の歴史において、いかなる地域においても絶えたことがなかったということでしょう。飛ぶ鳥落とす勢いの社会主義が、80年程で滅びたことを考えると、霊魂不滅がいかに普遍的な考え方であるかが推し量れます。死後の世界はその他に、前世記憶、退行催眠、臨死体験、そして霊能者証言の客観化でも科学的アプローチがなされています。前3者は、「生きがいの創造」飯田史彦著PHP文庫が参考になります。
死後の世界が本当にあるかどうかは、自分自身の確信の問題ですから、人に聞くだけでなく、ご自分で調べて確認されて下さい。


悪いことをしたら地獄へ落ちるといわれていますが、天国と地獄は本当にあるのでしょうか。私は死んだら地獄に落ちるのではないかと思って眠れないことがあります。

地獄と極楽(天国)の考え方は、日本の宗派仏教では皆違った考え方を持っています。それはお釈迦様が死後を語るのをたしなめられたからで、その解釈をめぐって様々な考え方が発生したようです。色々な話を総合してみると、死んだ人は外面性を失って、内面の心が表面に現れるようです。そして内面の似かよった気心の合う者同士が寄り合って一緒に生きてゆくようです。そのため食い意地の汚い人たちは食い争う世界を形成し、慈悲深い人たちは思いやりのある世界を形成してそれぞれの世界に住むことになります。それらの世界を地獄や極楽として象徴的に表現しているようです。ですからいやいやその世界に送り込まれる訳ではなく、自分にとって一番居心地の良い世界を自分が選んで住むということです。
もし私達が共有の施設に住むことを想定して、勤勉で思いやりのある人たちの施設はとてもきれいに管理されるでしょうし、怠惰で自分勝手な人たちが住む施設は、とても汚く醜いものであることは想像のつくところです。泥棒や人殺しをする人達の共有施設も想像はつきますね。自分がすることと同じことを自分が受けて苦しむのです。


「悪い事をしたら必ず地獄におちる」って昔から言われてますが本当でしょうか。悪い事とは人に迷惑をかけることですが、自分は良かれと思ってやった事が、相手にとっては迷惑極まりなかったりしますよね。ボーダーラインがわかりません。地獄へ落ちて欲しい人は大勢いますが、落ちるかどうか判りませんよね

善悪はあなたにとって都合が良いか悪いかで決まるのではなく、自然の調和に沿うものか、調和を乱すものかで決まってきます。ですから「人に地獄に落ちて欲しい」などと考える人のほうが地獄に近いかも知れませんね。どうかお気をつけになって下さい。極楽に近い人は、どのような人にも幸せになって欲しいと願っていると思います。昔から言う「悪いことをしたら地獄に落ちる」というのは、他人のことを言うのではなくて、自分のことを言っているのですね。


 
霊障

先祖霊はこの世の私達をお守りしているのでしょうか。あるいは反対に、事故や病気など私達に悪い形で何かを伝えることがあるのでしょうか。

先祖霊については、仏教の教えとは直接関わりがありませんのでご了承ください。私の認識では、思いやりのある普通の家族であれば、ご先祖様も当然子孫を案じ見守っていて下さると思います。ですから子孫も思いやりを持って先祖供養をすることが大切です。しかし家族や親族と争いの絶えなかった自分勝手な人や自殺者は、死んでも自分のことしか考えないで、子孫を苦しめることになるかも知れません。私達は眠っている間、先祖にも会っていると思います。目覚めたときにその記憶がないだけです。夢に出てきた先祖は、その記憶の痕跡ではないでしょうか。要は普通の家族関係と同じように、双方の性格を通して常に影響し合っているということです。

 
縁と因縁

バイト先でストーカーを受けてしまいました。占いをしてもらったら、先祖の因縁だというのです。私は幸せな生活が送れないのでしょうか。

因縁という考え方は確かにあります。しかしその要因は必ず現在の自分の中に潜在していますので、見えない力に怯える必要はありませんし、それを乗り越えることもできます。しかしストーカーが因縁に因るものであるかどうかは、少々考え過ぎではないでしょうか。日常起こりうる表面的な問題のような気がします。もしストーカーを受けることに自分の責任を見出すとしたら、華美な身だしなみがないか、必要以上に欲情をそそる行為がないか、相手に思いやりを持ちながらも毅然とした態度が取れるかどうか、といったことではないかと思います。自分の中に、執拗な犯罪者もどきを引き付ける魅力がないかどうかを点検して下さい。
ご先祖様が心配であれば、ねんごろにご供養なされて下さい。ただ供養というのは厄介払いではありませんから、自分の因縁を払うために供養をするというのであれば逆効果になるかも知れません。供養とは単にお坊さんにお願いすることではなくて、ご自身がご先祖様に思いやりを持って、成仏をお祈りし続けることであることを忘れないで下さい。


縁がなかったという一言ですべてをあきらめるべきなのでしょうか。縁というのはどのように受け止めればよいのでしょうか。

「縁」という言葉は、輪廻転生と一緒に考えます。「袖擦り合うも他生の縁」ということわざがありますが、ある生涯でつながりを持った人同士は、次の生涯でも何らかのつながりを持つという考え方です。結婚する者同士は最も深い縁によるものですから、前の生涯でも深い関係にあったと考えられます。自分で一生懸命努力して結婚相手を探したと思っても、実はあらかじめ定められていた相手であったということですね。


私の家系は過去3代、浪費や詐欺などで家族をとことん泣かせる極道が出て、たくさんあった土地を手放し、私も出世に遅れて今リストラに遭いそうです。ある宗教団体に因縁と言われています。

因縁は外から働く力ではなく、自分の心の中に潜在している思考や言動の習慣(癖)にあると思います。子は親の後姿を見ながら育ちますから、それらの習慣は確実に親から子に伝わってゆきます。人はその習慣によって自分の環境を形成し、その環境に支配されてゆくのが因縁ではないでしょうか。そのように考えてゆくと、御家系に浪費、極道が出るのは、持てるものの欲望によるものではないかと思われます。いっそのこと土地も財産もすべてを失うことが、欲望をなくする早道なのかも知れません。
出世の遅れやリストラについても、社会や会社のために一生懸命仕事をしているのか、自分のために一生懸命しているのかで、結果は全く違ってくると思います。自分への執着をなくしてゆくことが、すべての解決ににつながると思います。


長い間の男女関係であった人が、単に体の関係を求めていただけだということが判り、距離をおいています。男女間の縁とは一体何でしょうか。出会いがあって一緒に生活して一生協力し合って生きてゆくものですよね。それが、出来ない相手とは縁がないと見切って良いはずですよね。縁があってなかったということでしょうか?

「縁」の考え方は、輪廻転生の中で同じ人同士が繰り返し結びついて、お互いの人間関係を通して学びあうというものです。ですから人の縁は「深い縁、薄い縁」、「良い縁、悪い縁」というように固定されたもので、「縁切り」というように、自分の都合でコントロールできるものではありません。あなたと彼は深い縁にあリますから、結婚するかどうかは別にして、傷付けあう関係ではなく、良い縁にしてゆくことを考えなければなりません。彼の中に自分の姿を学んでゆかれたら良いと思います。


因果応報というものは善を行えば善が返ってきて、悪を行えば悪が返ってくると解釈しています。それではアメリカが広島、長崎に原爆を投下し、多くの人達を苦しめたことに対する因果応報はアメリカに対して起こっているでしょうか?アメリカは去年のテロの報復で、罪もない村を誤爆しているではないですか?因果応報が無いとすれば、アメリカがやっていることが正しいという事ですか?

因果応報は罰則ではありません。学びの法則です。私は核拡散による核攻撃の脅威や、地球環境破壊の脅威、核弾頭の廃棄処理問題などが原因の結果であり、アメリカは核の過ちを学んでいると思います。それよりも、日本が第2次大戦でアジア諸国に為した残虐行為の因果応報をご心配下さい。私も戦後生まれなのですが、私達は民族として過去の過ちを償わなければならないのです。善悪は人間の相対分別によるものではなく、絶対的な自然法則を基準としたものですから、広島、長崎の原爆やテロ報復や誤爆が善であるか悪であるかは、人智を超えた判断になります。「戦争の本質と戦争を避ける道」参照。

 
運、不運

最近家族に悪いことが続きます。私が厄年なのですが、そのせいでしょうか。

厄年は7・5・3などの年祝いと同じように、人生の節目の年にその転換が円滑に行われるように、当人を励ますための行事として各地で行われていたようです。厄年には災厄が起こるとされ、厄落としをしたことが今日の習慣になっているようですが、その根拠についてはこれまで一度も聞いたことがありません。むしろ厄年だとか、不幸だとかばかり考えているほうが、逆に不幸を呼び寄せるのではないかと思います。明るく前向きに問題の解決を図られては如何でしょうか。


私の周りの人たちが事故や怪我に遭っています。次々と不幸が襲ってくるので他の友人も心配です。私は疫病神なのでしょうか。

お友達の運命は、お友達固有のものでしょうね。あなたの不運が影響を与えるということはあり得ないと思います。人間誰しも、良いことも悪いことも起こります。悪いことばかり起こっていると感じている人は、良いことを見逃しているだけではないでしょうか。是非「良かった探し」をしてみて下さい。


小さい頃から父と母は別居をしていて私と妹は母の実家で育ちました。温かい家庭に憧れ、20歳で結婚をしましたが、夫と私の母との折り合いが悪く、酒乱もあって10年で離婚しました。次に結婚した現在の夫は、愛情は豊かですが仕事が何をしても上手くいかず、とうとう私の家と土地を手放して、今離婚の話し合い中です。めぐり合う人は皆優しいのですが、いつもどこかでずれてしまいます。人生の後半になって、先の見えない不安を抱える私は、やっぱり不幸を背負った人間なのでしょうか?人の運とは何なのでしょうか?

何か1つの問題点で、人のすべてを否定していませんでしょうか?離婚は逃げですから、自分の中に問題が残されていれば、何度でもそれを繰り返すことになります。相手が悪いと考えるだけではなく、問題の中に自分の課題を見出してみませんか?運は徳、不徳の因果ですが、幸運を得たいのであれば、今は徳を積まれることだと思います。先ずはご家族に思いやりを尽くすことでしょうね。本当に思いやりのある人は、「私は未だ未だ思いやりがないのではないか?」といつも自分に疑問を持っています。そして自分の痛みを持って相手に尽くし見返りは求めません。我慢と協調ではなく、忍耐と思いやりが徳になってゆきます。
過去を振り返り、今の離婚も良く考えて、反省すべきがあれば行動に移してゆかれたら良いと思います。


どうも自分だけが不幸な気がしてなりません。周りの人達と比べると、自分の境遇は大きく異なります。家庭環境とか、生まれつき治らない持病を持っているとか。仏教では、生まれつき病を持っている人間を過去世でもっとも罪深いことをした人間と判断するそうですね。本当でしょうか?どうしたら人生が上向きますか?過去は取り戻せないまでも、なぜ不幸に生まれる人間はいるのでしょうか?

因果応報という言葉がありますが、良いことをすればよい結果を招き、悪いことをすれば悪い結果を招くという見えない仕組みがあるということです。人間はそれによって倫理的な正しさを学び、完成した人間に近付くようになっていると思います。その仕組みが幾生にもまたがる、私達が認識できない期間で成り立っているので、なかなかそれに気付かないのですね。その自分の結果集が宿業(カルマ)です。人間が生まれてくるのはそれを学び正すためで、すべての人は異なった課題を持って生まれてきます。ですから自分の課題と他人の課題を比べて、ことさら自分の課題が不幸で過去が罪深いのではなくて、自分が選んだ今生の課題が、他人とはその質において異なるだけだと思います。私とて過去に何人人を殺したか判りません。その宿業が既に精算されたか、今のところ人の縁がなくて今生に表れていないというだけです。永遠の輪廻の中で人間は、うさぎになったり亀になったりしながら、かけっこをしているだけなのですね。望まれることは、自分の課題を人と比較してうちひしがれるのではなく、積極的に自分の誤りを正し、善行を積んでゆくことが、次の生涯に良い結果を導く原因になります。もし人より重い課題を背負っていると思うならば、人よりたくさんのことを学ぶ絶好の機会ではないでしょうか。正しい生き方を是非仏教で学ばれて下さい。人間の幸福感はそれとは別の感じ方の問題になります。どのような境遇にあっても幸福であるかどうかは自分の心で決まります。「感謝する心」「輪廻転生と宿業」参照。


 
祈り

大きな怒声に近い声で他人の不満ばかり言う家族を、神とか仏などの高次元な存在に「良い方向へ導いてください」と祈れば他人は変わっていくものなのでしょうか。

他人を自分の都合のよいように変えて下さいと祈っても、変わることはないでしょう。自分が正しい方向(仏が導く方向)に変われば、相手もそれに導かれて変わることはあると思います。


マフィーの成功法則に願望は実現するとありますが、それは本当に可能なのでしょうか?

人間の心の奥に自他を超える部分があります。その自他を超える力が不可視の領域で願望を実現する力になると思います。しかしその力はエゴとは相反するものですから、自己中心的な願望が実現することはないでしょう。マフィーの成功法則の表現には、その倫理部分が欠落していると思います。というより、ジョセフ・マフィーは自分の成功の裏にある倫理観に気付いていないのでしょう。成功哲学のたぐいが実現しないのは、自分の欲望によって成功を望んでいるからです。成功が財産や名声でないことに気付くことが大切だと思います。

 
教団と宗教

仏教宗派が異なることによって不便なことがたくさんあります。僧侶も自宗派以外のことには大変不勉強です。日本仏教として統一することはできませんでしょうか。

統一はしてよいものと悪いものがあります。パソコンのOSや、工業製品の規格は統一した方が便利ですね。私達の服装はどうでしょうか。昔の中国のように、皆同じ服装になってしまってはつまらないですね。それは何故かというと、個性の表現ができなくなるからです。それでは宗教の教えはどうなのでしょう。この相談室でさえ、私はあらゆる表現方法を使って、相談者に応じた回答を考えます。このように、宗教は人の個性に応じて異なるべきものなのではないでしょうか。1億人いれば、1億宗派の仏教があってもよいと思いますが、それがパターン化されて、今日の宗教、宗派を形成していると思います。それを歴史的に捉えれば、時代と場所と傑出した指導者によって、宗教、宗派が分かれてきたのだと思います。
しかし、葬式や先祖供養のやり方は、統一しても悪くはありませんね。そうなれば、どこのお葬式へ行っても全く同じことをやっていることになりますし、どこの家でも供養のやり方は同じになります。それを統一するなら、立法以外には不可能でしょうから、どれくらいの必要性があるかが先ず問われてくるでしょう。


結婚を約束した相手がある仏教教団に入っていて、私も誘われました。それを断ったら式場の予約まで済んでいるのに結婚を断ってきました。これから裁判になります。宗教は人生を変えるほど大切なものなのでしょうか。

宗教と教団は分けて考えなければなりません。仏教はお釈迦様の教えですが、それを奉ずる組織集団が教団あるいは宗派で、それはたくさんあります。教団が一旦でき上がると、それを維持存続するためお金が必要になります。そのため新興宗教の一部の教団では、本来布施であるはずの寄付金を半ば強制的に信者から取るところが出てきます。そのような教団は収入の安定を図るため、執拗に信者を勧誘するのが特徴です。あなたのお相手も、恐らく「夫婦で入信しなければならない」と、半強制的な勧誘に会っているのでしょう。そのため不幸になっている家族もたくさんあります。それは宗教の問題ではなく、教団の問題即ち組織の問題なのです。これではまるで宗教を付加価値として売買する営利団体に過ぎないのですが、法的には同じ宗教法人なのですね。むしろあなたの救いは、未だ結婚されていなかったことではないでしょうか。そのうちきっとまた良い方に巡り合えると思います。早く忘れるためにも、あまり醜い争いはされないほうが良いと思います。


某カルトの元信者ですが、人柄も誠実で優秀で勤勉な人たちが、何故社会に建設的な方向ではなく、破壊的なカルトの推進力になるのでしょうか。

ナチスも日本の軍国主義もそうですが、いつの時代もそれを推進しているのは誠実で優秀で勤勉な人たちではなかったでしょうか。人間の世界観は融通無碍でいくらでも変わります。私達がTVゲームをやる時は、ゲームの世界のヒーローになり切ります。学校に行けば学校の世界、会社に勤めれば会社の世界で一生懸命生きるだろうと思います。このように、人間の世界観はもともと洗脳によって出来上がっているのではないでしょうか。ですからインプットされる情報を制限すれば、いくらでもその世界に洗脳されて、優秀で誠実で勤勉な人であればあるほど、破壊的なカルトの推進力にもなり得ると思います。その解決方法は、色んな世界に視野を広げることだと思います。


キリスト教とイスラム教って一神教のため、十字軍VSイスラム帝国からはじまる敵同士ですよね。仏教を信仰されているみなさんは他の宗教についてどうお考えでしょうか?

宗教でも国家でも人が集団に属すると集団自我を形成します。この集団自我には自集団を防衛しようとする働きがあって、この防衛心が即ち攻撃心になります。キリスト教は聖書に、イスラム教はコーランに強い忠誠心を求められますから、それぞれの教義を守るために自我の防衛心が働いて争いが起こるのだと思います。ですから宗教間の戦争はもともと宗教の問題ではなくて、集団自我の問題なのではないでしょうか。何故ならばどの宗教も平和と幸福を説いているからです。仏教は解釈が難し過ぎることが幸して教義が不明確で、守るべき固定したものが少ないためか、過去大きな争いを起こしたことは少なかったようです。教団や教義が争いの元になりますから、それを否定して、ただ1人で活動している宗教家もいるようです。ニューエイジもその流れかも知れません。仏教徒から見たキリスト教ですが、私自身は何の矛盾も感じません。イスラム教はすみませんが不勉強で判りません。


先日外国人の友人に仏教について聞かれて言葉に詰まってしまいました。何だか曖昧だし、宗派によって様々だとも思いますが、自分の国のことをもっとよく知り、その誇りをこれから先ずっと抱えて生きたいと思ってます。だからこの国の思想たる仏教のことを誰にでも判るように教えて下さい。

仏教は仏陀(釈迦)が説いた教えと、もう1つ仏になる教えの意味があります。キリスト教は神になる教えではありませんから、人に対して唯一絶対の神が存在しますが、仏教は自分が仏になる教えですから、釈迦は指導者であって、神に相当するものは存在しません。キリスト教は一生を対象にした倫理を説きますので、善悪を明確にしますが、仏教では輪廻を前提にしますので、善悪がありません。この辺は狩猟民族に対する方便と農耕民族に対する方便の違いで、根本にある真理はキリスト教も仏教も同じだと思います。仏教宗派の違いも方便の違いで、釈迦の教えが色々な表現になったものです。仏教聖典を参照して下さい。


 仕事の知り合いからあるお話会に連れて行かれました。多少親しくなって、自分自身の身の上も語り始めた頃、「あなたの母親は刺されて死ぬ。しかも、身元不明で見つからない」とか「あなたの母親は精神病でしょう」とか「仕事をやめなさい」などと言われるようになりました。また「この教えに背いたら神から罰を加えられる」といったことも言われてしまい、そんなことはある訳はないだろうと思いつつも、何かありそうで気味が悪いです。どう応対すればいいのか悩んでいます。

あなたが嫌なのであれば、仕事を犠牲にしてでもその人と離れたほうがよろしいでしょうね。私が刺されて死ぬだの神が罰を与えるだのいわれたら、逆に興味を感じて、試しに殺されるようなことをどんどんしてみます。信仰は本来主体的なものですから、エゴの恐怖感を利用して押し付けるのでは、本来の宗教とは逆行します。その教祖は何か悪霊にでも取り憑かれているのでしょう。そんなもの何も怖くはありませし、近付かなければそれですむことです。
全然心配はいりません。